昭和20年6月の空襲で、四日市の市街地は灰燼と化した。神社南にあった私の家も焼けた。家族を北山町の親戚に預け、祖父と父は店の土地を守るため残った。その夜、B29から降りしきる焼夷弾は、あたっただけでも即死で、屋根に突き刺さって燃えひろがった。空襲後の空撮では、店の位置は真っ黒になっている。
戦後復興が進み明るい日差しが見え始めた昭和27年3月、建設構想が進む近鉄四日市駅と国鉄四日市駅間を70メートル道路で結ぶ中心市街地計画が始まり、こけら落しに大博覧会を開催することとなった。誰の思いにも昭和11年の港を舞台に開かれた“国産振興大博覧会”を思い浮かべたに違いない。写真は、昭和31年の講和記念博覧会が終了して中央道路の整備が進む航空写真である。
上南・右近鉄四日市駅・左国鉄四日市駅
国道1号線に沿った南側に建つ“四日市館”は好評だった。地元特産品である食用油をはじめとする食品類・肥料類のほか、タオル、自転車、靴織物類、傘、下駄、スレート、石鹸などが陳列され好評であったといわれている。また、特設館のひとつに加えられた四日市祭りの人気者・大入道が会場で数回実演を行い観客を喜ばせた。入場数はおよそ80万人に達し、成功裏に幕を閉じ赤字どころか75万円の剰余金を出した。(四日市もっと知りたい検定・四日市商工会議所発行)
四日市館の外観と内部