賀春
“賀春” 長田 弘 古い鉄橋の架かったおおきな川のそばの中 学校で、二人の少年が机をならべて、三年を 一緒に過ごした。二人の少年は、英語とバス ケットボールをおぼえ、兎の飼育、百葉箱の 開けかたを知り、素脚の少女たちをまぶしく 眺め、川の光を額にうけて、全速力で自転車 を走らせ、藤棚の下で組み合って喧嘩して、 誰もいない体育館に、日の暮れまで立たされ た。...
View Article雨二モマケズ
お恥ずかしいお話ですが、この年になると、正しいことを実行すべきだと常々考えるようになりました。“ただしいこと”とは何でしょう? 第158 回直木賞受賞作 門井慶喜著『銀河鉄道の父』を、監督 成島...
View Article江戸日本橋 百川楼探訪 前編
さて、元日の1月1日に旧四日市港散策コースを撮影に行ってまいりました。題して「四日市旧港を 案内します」の前編と後編を一挙公開です!初春の湊めぐりをお楽しみください 「2024新春・四日市旧港まちあるき/前編」 (youtube.com) 「2024新春・四日市旧港まちあるき/後編」 (youtube.com) 江戸の日本橋...
View Article四日市旅館案内
本町まちかど博物館の水谷宜夫さんの処でお借りしたパンフレット「四日市旅館案内」 船のイラスト 太白永餅さん、当時は江田町だった諏訪駅を降りてすぐのところに「大善」という旅館があった。何処だろう? 尾上町の「浜千鳥」ボート遊覧設備アリマス 村上時雨さん 中央通りも三滝通りも、中途半端。ということは、終戦直後のパンフレットになる。 国鉄駅周辺 西へずれて 川市さんは旅館をやっていた...
View Article四日市旅館案内 その二
年末、工場夜景を楽しみに うみテラス14 へ出かけました。 「人気の工場夜景のツアーに参加してみた!/四日市コンビナート」 (youtube.com) 戦後の昭和27年頃は、結構な数の旅館があった。諏訪公園北の西新地あたりに多いのは、赤線の春告園周辺にあたるので、ラブホテル的意味合いもあったのだろうか?そこから湯の山街道を渡って北側は、商人宿が多かった。 店名を記入してみた...
View Article白内障の手術 その一
このところズーッと物が見にくくなっていた。眼鏡を変えれば良しか?と思っていたら昨年春ごろから左目に白い靄のようなものがかかりだす。近所の眼科へ出かけたら眼鏡を変えるだけでは治りません!ときた。...
View Article白内障の手術 その二
後半ご報告の前に、岡野繁松先生の書き残された 四日市驛 のお話を聞いていただきたいと 切にお願いする次第です 涙なしでは見れません って ホンマカイナ 「えっ!これが四日市駅/たけちゃんの四日市町歩き」 (youtube.com) さて、白内障の後半です すでに数名の先客がいた。14時40分の手術になぜ13時に呼び出されるのか?と座っていたら、10分ほどで呼ばれた。やや緊張! まさしく...
View Article最後の白内障手術
2日前に「手術の時間が30分早くなりました」という電話が入った。私の前の患者さんは 車椅子の認知症のおばあさん。前回の診察の折 ロビーでヘルパーさんに「同じことを何回も聞かんでええの!」と 大きな声で叱られていた。前回の手術から同席だったが 今日は見受けられない おそらくそのおばあさんがキャンセルされたのではなかろうかと邪推する。何本もの目薬を注すのは無理だろう と思う...
View Articleこうせつ市場
市場(いちば)で発展してきた四日市。明治以降の定期市場は形を変え、スーパーマーケット形式が出はじめました。文化展望四日市に岡野繁松先生が“庶民の市 四日市”としてこんな投稿をされています。...
View Articleこうせつ市場 その三
平成23年発行の写真集“四日市の昭和”樹林舎刊 に、慈善橋南の“市”の写真が掲載されていました。 「ばあちゃん!なんか買うてくれぇ!」 四日市市は東海道の宿場町として栄えた歴史を持ち毎月4日に「市(いち)」が開かれたことが市の名称の由来となっている。平成23年当時、市内には17も「市」があり、慈善橋卸売場は、四日市の朝市では店舗数が一番多く70店舗以上として知られている。(昭和33年...
View Articleこうせつ市場 その四
樹林舎刊の「四日市の今昔」に大正バザーがあった。 中町銀座通り左の大きな建物が、戦時中に営業取り止めの災難に見舞われた「大正バザー」。 中町 昭和18~19年 旧東海道と交差し、当時は中町銀座と呼ばれて多くの商店が軒を連ねていた。西方を望むこの写真の、最奥には老舗御菓子屋「栄昌堂」がある。(水谷宜夫氏提供)...
View Articleこうせつ市場 その六
またまたGGシニアさんがアップ 今回は、軽便鉄道のお話です。何も知らないわたくしメは、軽便鉄道のことをけいびん けいびん と何度も間違えております。けいべん と発声しますと、おなかが変になるのです。拙い動画を ご覧ください。 (17) 「昔、四日市一番街に駅が2つ!」 - YouTube “こうせつ”にも興味を持たれた岡野繁松先生は、“旧四日市を語る...
View Articleさよなら第三(納屋)小学校
明治10年 納屋地区の人々によって新築開校された「納屋小学校」は、明治41年から市立第三小学校となり「浜村」の養育に力を注いで120年。だが、この学校も児童数の激減にあい、やがて第五(中部東)小学校と合流して中央小学校と改名移転する。かくて大入道や鯨船たちをはぐくんだ長い歴史の巻物は閉じられてゆく。平成6年発行 文化展望 四日市 第12号 四日市今昔⑫ 椙山満 著...
View Article”前畑がんばれ!”の海蔵受信所
「前畑がんばれ!前畑がんばれ!前畑勝った!前畑勝った!前の畑でポチが鳴く!勝った!勝った!勝った!」 日本全国を沸かせたNHK実況のラジオ放送は 昭和11年8月11日 第11回ベルリン大会でのことでありました。この放送は、ベルリンのナウエン無線局から日本無線電信株式会社 海藏受信所へと送られ、名古屋電信局を経由してNHKに入り 全国に放送されたものでございます。逓信省 名古屋無線電信局は...
View Articleこうせつ市場 その七
四日市はその名が示すように 四の日に市場が開かれてきたことに由来する。湊と東海道がクロスする道に市が開かれ、賑わいが生まれ、やがて常設の店舗となって町がつくられてきた。四日市市の原型は“市”であり、その存続のほんの一部を引き継いでいくのが私たち商店街で生業を持つ商業者の義務であると考えている。以下 続・よっかいち浪漫紀行 北野保 著より 新装になった慈善橋市場の賑わい 平成28年現在...
View Article掖済会横の石灰工場 千種城
昭和9年の夏休み。菰野に住んでいた小学2年生のKさんは、掖済会前の海岸に来ていた軍艦由良の見学に出かけている。 掖済会横の石灰工場③ - 花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)...
View Article掖済会横の石灰工場 凱旋門
さて、鈴鹿山麓のすそ野を下り竹谷川(たけたにがわ)沿いに進むと、まっすぐな道路に二本の石柱が立つ場所に到着しました。Kさんは『途中特に気が付いたことを順を追って書き留めていくと 潤田の凱旋門を出て、旧千種街道を桜並木に沿うて下っていく・・・。』と凱旋門のことはこのように記録してありました。 潤田の凱旋門...
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