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Channel: 花の四日市スワマエ商店街
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市井からの眺め101海軍道路③

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下総人さんのコメントに、海軍道路に沿ってパイプラインが引かれていたのでは?とあった。ここでベンチャーズの『パイプライン』か?などと胡麻化していたのでは 保っちゃんに叱られます。

 

四日市市の南部、鈴鹿川の本川と派川に挟まれた楠町本郷の楠村神社西側に、コンクリート製の建物遺跡がある。北野保著『よっかいち歴史浪漫紀行』第16話 第二海軍燃料廠取水施設より

この建物は、塩浜の第二海軍燃料廠に水を送り続けた河原田第一ポンプ場(本郷深井戸)で、同じような施設が小倉と河原田にもあり、汲み上げた水は、一旦泊山貯水場に集められ、浄水した後に海軍道路に埋設した管を通して構内に送水されていた。

本郷深井戸は、戦後 国の管理となったが、昭和57年から20年間ほど農業用水補給水源として使用されていたことがある。その後 楠町が管理しているが、貴重な戦争遺産といえよう。

昭和13年吉田勝太郎四日市市長は、塩浜に約60万坪の用地を買収、航空燃料の増産を目的にわが国最大の規模を誇る第二海軍燃料廠を翌16年4月21日に開庁させた。昭和17年4月18日の初空襲以来、海軍燃料廠がB29の攻撃目標となったのは当然のことでありました。

 


市井からの眺め102海軍道路④

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塩浜の第二海軍燃料廠と泊山は、海軍道路によってつながっていた。

昭和20年4月5日午前9時43分に空撮された第二海軍燃料廠。陸軍参謀本部陸地測量所が、何らかの目的で撮ったもの。この後、空襲で壊滅的な被害を受ける。(教育委員会所蔵)

昭和20年6月22日・26日と7月9日は、B29による空襲で、破壊された海軍燃料廠。中央やや右側に人が立っているが、建物の巨大さが分かる。

昭和20年11月30日、第二海軍燃料廠は消滅。昭和30年8月に昭和石油に払い下げられた。そして、四日市コンビナート形成の基となる。塩浜駅側から石原産業方向に撮られたものか?中央左右に塩浜街道が通る。(昭和20年代)

 

昭和31年頃、燃料廠跡の撤去作業の様子。

写真集「四日市の100年」・「四日市の今昔」より

 

 

市井からの眺め103海軍道路⑤

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昨日(8月6日)は休みだったので、泊山の、第二海軍燃料廠貯蔵施設跡を探索に出かけた。

日永西の中部電力変電所から西へ、南部丘陵公園東入り口方向へ入る。住宅地を走ると泊山小学校が左に見えた。小学校のちょうど北側あたりに、小山が望めたので住宅地の間を枯草を踏みしめ入っていくと、あった!

まさしく 北野保さんの写真と同じだった

しかし、思ったよりも大きい

排水のパイプが何本か刺さっていて、ブロックでしっかり封じてある。おそらく、入り口から下へ向かって掘られていると想像する。中は水で満たされているだろう。この穴から覗いてみたいものだ。

そこから、海軍道路を東へ走り 塩浜燃料廠跡から南へ折れて、本郷深井戸へ向かった。鈴鹿川から取り入れられた水は、一旦、泊山へ集められ、そこから海軍道路のパイプラインで燃料廠へ送られた。

23号線を突っ切る!

本郷深井戸では、農作業をしていた老人(私も老人)の話を聞くことができた。

市井からの眺め104海軍道路⑥

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泊山から海軍道路を東へ、第二海軍燃料廠跡にぶつかり塩浜街道を南へ、楠方面へ進んだ。

 

農道に入ると、楠城跡の立て札が見え、その先に楠神社があった。神社の西に小さなコンクリートの建物が望める。思ったより小さい。

 

近くで農作業をしている方がみえた。

「ここは、鈴鹿川と鈴鹿川派川の分岐点にあたる。現在は農業用水として水を汲みだしているが、水不足の時だけ利用している。というのも水に使用量(使用料の間違い)がかかるようになったからだ。建物はここの周辺の者で管理している。今ではカギがかけられているが、小さい頃はよく水を飲みに入ったものだ。名水というわけにはいかない。大腸菌も入っていたに違いない」ということだった。

隙間から覗いてみたが、階段で下へ降りるようになっていた。どのように汲み上げているのか見たいものだ。

 

その下(南東箇所)に、軍用地と民有地を区分する『境界標柱』が立っていた。高さ40センチほどのコンクリート製で『海軍用地』と彫ってある。北野保氏の「よっかいち浪漫紀行」によると、北西側にも立っているそうだ。四日市で現存するのはここだけで、貴重な戦争遺産といえる。

鈴鹿川堤の間に残る本郷深井戸は、暑い日差しを受けて静かに佇んでおりました。

 

市井からの眺め105海軍道路⑦

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燃料廠の話を聞いた方から、楠のお寺で焼夷弾が保管されていることを聞いたので訪ねた。

M69焼夷弾は、六角形の断面を持った簡素な鋼製のパイプであり、直径は約7.6センチ、全長は約51センチで、焼夷剤としてナパーム(ゲル化ガソリン)を用いられ、B29爆撃機の爆弾倉に、典型的には40発のクラスター爆弾(トータルでは1520発のM69子爆弾)として搭載された。

この爆弾は昭和20年2月の神戸大空襲に始まる、木造建築が密集している日本の都市に対する大規模焼夷攻撃において非常に効果的であった。昭和20年3月に行われた爆撃により、東京大空襲、名古屋大空襲、大阪大空襲、神戸市に大規模な火災害と大量の民間人への死者が発生した。(ウィキペディアより)

塩浜第二海軍燃料廠への集中爆撃の煽りをくって、楠方面へも焼夷弾が落とされた。50センチほどの鉄の棒である。土が詰まっているのは地面に突き刺さったからだ。木造の日本家屋を突き破り、屋根裏でガソリンを飛散させるように設計されていた。想像以上に重い。こんなものが何百と降ってきたら、あたっただけで死ぬに違いない。

戦争という狂気は、あらゆる殺りく兵器を作り出した。忘れてならないのは、それで一儲けする企業があるということでございます。

例によって焼夷弾の動画です。コピー貼り付けでご覧くださいhttps://www.asahi.com/articles/ASM7D6FTLM7DUEHF00B.html

 

市井からの眺め106海軍道路⑧

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戦争の終局は間近であった。『旧四日市を語る 第十集』原 孝雄さんの“四日市空襲についての備忘録 より

昭和20年6月18日午前零時45分から1時35分までの約50分間にわたったといわれる爆撃によって、四日市の街は灰燼に帰し、808名の命と共にその姿を消した。その日投下された焼夷弾は、約3万個であったという。

空襲後の中心市街地

 この頃になると、第二海軍燃料廠の空襲が近いことを誰も疑わなかった。確か、6月22日9時35分頃の空襲に続く6月26日の夜の空襲によって、第二海軍燃料廠は壊滅的な被害を受けた。

この夜、私たちは、避難先の「野田」の人々も交え田圃道に出て、三滝川越しに遠く、体の芯を揺さぶるような爆弾の炸裂音と、そのたびに赤く染まる空に心を痛めながら、ただ息を殺して見守るばかりであった。空にはサーチライトが交錯していたが、その二本のサーチライトに映し出された飛行機の白い映像が、私たちの目に飛び込んできた。と同時にそれに向かっていく小さな飛行機がはっきり分かった。私たちは心から戦果を期待したが、この二機の映像はやがてサーチライトの光より消えていった。初めて見る実戦の場面であっただけに、今も強く印象に残っている。

左 鵜の森神社・右 浜田小学校(空襲後の空撮)浜田小学校の校庭の碁盤の目は畑か?

 この日の空襲は、午後10時30分より翌日の午前零時20分にかけて行なわれたという。

市井からの眺め107海軍道路⑨

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昭和19年12月11日午後1時22分、時の小磯首相は、今いるその場で1分間黙祷することによって、伊勢神宮に必勝の祈願をせよと、全国民に指令した。半藤一利著“B面昭和史”平凡社ライブラリより

その昔、元の来寇のとき神風が吹き日本を救ったという。いままた、全国民の精神力によって神風を吹かせ、連合軍の大機動部隊を撃滅し、B29の編隊を撃墜しようというのであった。

空襲について軍部は国民を指導した。

「爆弾とか焼夷弾は決して全部が全部、うまく命中するものではない。弾は目的物になかなか命中するものではないのであってあって100発中1発、せいぜい50発中の1発が命中すれば上出来である。1回200機の空襲を受けて、焼夷弾400発を投下されたとしたら、直撃弾そのものでは大体100人くらいの死傷があって、まことに微々たるものであり、戦争する以上は、当然忍ぶべき犠牲である」

それゆえ問題となるべきは精神面での敗北感であると、戦争指導層は躍起になって吼えまくった。

空襲警報が発令されると街は真っ暗である。家庭防護班は防空服装に身を固めて、バケツ、火はたきなどを手にして門口に立つ。男は戦闘帽にゲートル、鉄兜を肩にかけ、女は洋服にズボンかモンペ姿で、防空頭巾をかぶり、戦場にある兵隊と同じ姿であり同じ心で、戦いの日を送り迎えるようになる。

永井荷風はひたすら憤慨している。

「夜半過ぎまた警報あり。砲声しきり也。かくの如くにして昭和19年は尽きて落莫たる新年は来たらむとするなり。我が国開闢(かいびゃく)以来かつて無きことなるべし。これ皆軍人輩のなすところその罪永く記憶せざるべからず」

開けて昭和20年6月の空襲で、四日市市街は焼け野原となる。近所の老人から公園の防空壕の話を聞いた。諏訪公園の市民壇南側にエル字型に掘られた防空壕があった。夜半、サイレンの合図とともに女子供はその中へ避難する。そこへ焼夷弾が命中する。壕は崩れ、からだ半分が土に埋まり大きなやけどを負った。私の父はおじいさんと共に店を守った。空襲の跡地では境界が分からなくなるからだった。おそらく、降りしきる火の粉の中、死に物狂いで燃え盛る我が家を叩き消していたのだろう。

 

ロジドリ(路地撮)より

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中日新聞津支局の板津亮平氏が「商店街から取り残されたような、昭和のにおいがする路地を撮りたい」と訪ねて来たのは半年ほど前のことだろうか。その後、何度かみえた。当店の西側に位置する連鎖街は、ロジドリの期待に充分応える路地である。故スルメ氏が話していたのは、ここに兵舎だった建物を2棟持ってきて建てたということだったが、兵舎かどうかの確認を得ることは出来なかった。

おばさんの立っているところに階段があった。香蘭・階段・煙波と並ぶ(昭和33年3月8日 辻 俊文氏撮影)

1階は、小さい飲食が並ぶ。北側寄りにやや広い階段があり2階へ上がると、木の廊下の東側には小さな部屋が並んでいた。

木戸君の描いた当時の連鎖街。遊郭の行燈のような明かりが立っていたという。左に階段が見える。辻さんの写真には行燈らしきものは映ってないので、昭和40年代に立てられたのだろうか?

諏訪公園にあった四日市幼稚園で同じクラスだった女の子のところへ遊びに行った。部屋は狭く隅に布団が積んであってその上で遊んだ。美人タイプの子だった記憶がある。

後年、商売の関係でご主人に会うことができた。その子だったかどうか確証を取ろうと話していたら、ご主人はフッと「お水だった」といった。水商売をしていたという意味である。その時本人に会うことは出来なかったが、結構リッチな生活をしている様子だった。

右が北・緑の部分に2棟 兵舎らしき建物があった。マダムよう子のあたりに階段があったが、「煙波」の記入が抜けている。(昭和32年頃)

この2棟を通称、連鎖街と呼んでいたのだろう。連鎖した木造建築。漏電になるとまる焼けだった。実際、火事で焼失している。

 


渡満の果てに

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昨日(8月12日)の中日新聞掲載のあったロジドリ裏面に“渡満の果てに 三重の満蒙開拓団”の特集があった。昭和7年以降、三重県からも3千〜4千人の家族が満州へ渡り半数以上が帰国できなかったという。弾丸列車が華々しく走る陰で、悲惨な現実があったことを忘れてはならない。

川野さんは、コレラ、発疹チフス、はしかや肺炎が蔓延する中、空腹に耐えながら遺体の埋葬に携わった。そして40日後、ようやく綏化(すいか)から新京への列車に乗ることができる。

ところが途中厄介なことが相次いだ。「数日間の道中、列車はしばしば停止しました。無蓋車に便所はありませんから、泊まるたびにみんな降りて用を足すんです。夜になると『ギャーッ』という悲鳴が物陰の方からときどき聞こえてきました。それでも、助けに行くことはできません。真っ暗ですし、下手したらこっちが殺されます。

列車が止まったのにはわけがあります。というのも、ソ連兵が列車を停めて、私たち避難民にゆすりたかりをするわけです。『女をだせ』とか『時計出せ』、『銭出せ』とか。女を出さないでいると、車内は緊迫した異様な雰囲気になるんですよ。女たちがお互い不信のかたまりとなってしまうんです。それで、向こうが要求する人数を出すと、やっと鉄橋を通してくれました。列車が動くということは結局は誰かが犠牲になったということ。水商売業者とか淫売の前歴がある人とかが、身代わりになったんです。日本帝国裏面史“実験国家満州帝国のすべて”より

 

市井からの眺め108海軍道路⑩

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以前“男の囲炉裏端の会”にて、北野 保氏から「四日市に原子爆弾が落とされていたかも?」というショッキングなお話を聞いた。「よっかいち歴史浪漫紀行」北野 保著 四日市商工会議所刊より

左 北野保氏(男の囲炉裏端の会にて)

『米軍資料 原爆投下報告書』東方出版によると、パンプキン爆弾と呼ばれた模擬原爆は、昭和20年7月20日・24日・26日・29日・8月8日、そして終戦前日の14日にかけて、北は福島市から南は長崎市までの18都道府県の29市町に、原爆投下部隊「509混成軍団」が特別作戦として合計49発を投下している。(ちなみに原子爆弾は、広島へ8月6日午前8時15分。長崎に8月9日午前11時2分に落とされた)

このうち四日市には、長崎原爆投下前日の8月8日に千歳町の千歳橋付近と塩浜町の第二海軍燃料廠付近に投下され、死者2人・重傷12人・軽傷44人・住宅140戸全半壊などの被害があったという。

アメリカ軍は、7月24日にも本市の港湾地帯を目標に模擬原爆を投下したともいわれているが、この時は目標が変更されたという説もあり、定かでない。

これは、模擬爆弾投下の実態を明らかにした「春日井の戦争を明らかにする会」によって突き止められた。

また、『亜細亜文化研究所研究年報 日本に投下された49個の模擬原爆』菊池良輝 著によると 計画では重要な工業地として、

7月24日 千歳町・第二海軍燃料廠住宅 1個

8月8日  千歳町:千歳橋付近 1個

8月8日  塩浜町:内部精油所 1個 となっていて実施には変更があったようだ。

市井からの眺め109海軍道路⑪

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鵜の森公園の一角に建てられた“四日市空襲殉難碑”。碑の裏面にはこう刻まれている。

「昭和16年12月8日に勃発した太平洋戦争は、ポツダム宣言受諾によって、昭和20年8月15日遂にわが国の敗戦に終わった。この間、アメリカ空軍爆撃機B29による日本本土への空襲は日増しに激化し、戦禍はとどまるところを知らなかった。海軍燃料廠をはじめ多くの工場群を擁した四日市市は、前後6回にわたる苛烈な爆撃により壊滅的被害を受けた。わけても、最初の爆撃を受けた6月18日の災禍は凄惨の一語に尽きる」

例年行われる6月18日の四日市空襲犠牲者慰霊献花式は、新型コロナ禍のため中止となっていました。

<四日市空襲について>市のサイトより

昭和20年6月18日、本市は大規模な空襲に見舞われました。太平洋戦争の長期化と深刻な戦況が続く中で、昭和19年にサイパン島やグアム島が陥落すると、米軍による日本本土への本格的な空襲が始まりました。最初は東京や大阪、名古屋などの主要都市が攻撃されました。

昭和20年6月、米軍の新作戦によって、空襲の攻撃目標が中小都市に拡大されました。18日未明、本市は、浜松市や大牟田市、鹿児島市とともに中小都市空襲の第1回目の攻撃目標とされ、運命の日を迎えました。グアム島の近くのテニアン島北飛行場を発進した攻撃機は、硫黄島の上空から伊良湖岬を経て、伊勢湾に到着。本市を攻撃した後、熊野灘に去っていきました。米軍の中小都市空襲『作戦任務報告書』によると、このときの攻撃機の総数は89機、18日の午前1時28分から3時5分までの間に、高度2,100メートルの上空から、6~100ポンドの焼夷弾を約3万個、合計567.3トンを投下。全市の35パーセントに当たる約3.18平方キロメートルの市街地が焼失しました。

当時の四日市警察署『沿革誌』によると、この空襲で罹災者47,153人、死者736人、行方不明者63人、負傷者1,500人。住家の全焼11,140戸、半焼250戸、非住家の全焼1,252戸、半焼165戸と、一夜にして市街地は焦土と化し、多くの市民の尊い生命と貴重な財産が奪われました。

 

新 諏訪駅物語① 駅は動く!

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おなじみの写真です。空襲後 急遽建てられた諏訪駅はいわゆるバラック建てでした。昭和21年頃から昭和31年9月までの10年間、諏訪駅は今の1番街の真ん中にありました。『諏訪、行こ!』。買い物に、遊びに、多くの人々がこの駅を利用しました。

明治44年の地図です。内部八王子線も湯の山線も、この頃はまだありませんでした。

大正11年の地図です。当時、三重軌道の諏訪駅と、四日市鉄道の諏訪駅は別々の場所でした。四日市駅を出発した各列車は、それとなく競い合うように諏訪駅へと入りました。市役所は高等女学校(現・中央小学校)の西にありましたが、昭和には、現在の場所に移されます。

昭和13年、諏訪駅は東海道沿いに建てられます。この時は、内部・八王子線と湯の山線の合同駅となりました。

人家のひしめく東海道沿いに、諏訪驛は線路を挟んで北驛と南驛がありました。

 

 

 

緊急連絡!商店街ドミノ

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只今、四日市商店連合会の事務局から連絡が入りました。

日本テレビ放送の24時間テレビで、8月23日(日)の午前1時から3時までのどこかで20年前に行われた“四日市商店街ドミノ”が再放送されるようです。

こうご期待! 申し訳ありません コピーと貼り付けでお願いします

https://blog.goo.ne.jp/hotokeya/e/1fef889746da597d5b4e41a2ea282a17

商店街ドミノ情報②

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日本テレビのTさんに お尋ねしました

ご返事は 23日(日)午前1時から3時までの間のどこかで 商店街ドミノを放送予定です

放映時間ですが 生放送なので 未定である ということ

個人の顔は消すように努力しますが 不行き届きの場合は申し訳ありません

ユーチューブにアップは禁止 DVDでお渡しすることもできないということでした

少しでも長い放送時間を期待して待つしかなさそうです

四日市31万人市民が「楽しみにしています!」とだけは伝えておきました

新 諏訪駅物語②合同駅

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明治から大正にかけての 諏訪駅を中心とした路線図を描いてみました。

はじめは三重鉄道と四日市鉄道が並行して 関西鉄道の四日市驛へと延びていて 始発駅となっていました。写真は大正5年3月の合同駅の様子です。『北勢軽便王国物語』より

椙山先生が 駅の図面を描かれました。終点?始発?にターンテーブルがあって 車両はUターンしておりました。

こうして 蒸気汽車は回転してそれぞれ 湯の山へ 八王子へ 内部へとのびていました。

下を見ると 四日市鉄道も三重軌道の路線に入って 共同線となり 阿瀬知川駅に伸びていました。阿瀬知川には現在位でも材木店があります。ここから船積みがされていたのでしょう。

 

 


新 諏訪駅物語③戦前の諏訪駅

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戦後の諏訪駅は1番街のキタオカとパチンコホームランの間にあったが、戦前は東海道沿いにあった。“旧四日市を語る”にこの記事が掲載されていたので紹介する。(手抜きにつき再掲載でございます)

新田町の南端の東海道筋に線路を挟んで昭和4年に建てられたと言われている南と北の駅があった。線路は東海道と直角に通り、両駅舎とも東海道筋の西側で人通りが多かったので如何にも遠慮して建っているように感じた。

南驛

現サンシ前から北東を望む ホームの西端が見える

駅の構内を汚れの少ない用水路が流れていた記憶がある。(用水路は、諏訪神社から東海道に沿って西側を流れ、あせち川へ合流していた)名古屋からの電車は西町驛(三滝川南堤で今の踏切の南にあった)から下り、両側が田圃の間をずっと南下し天理教の教会(場所は現在と変わっていない)のあたりから急カーブで東へ曲がって諏訪釋に入った。諏訪驛からは南側に田圃が見え線路脇には小川の流れている所を殆ど真直ぐに東へ、そして、善光寺の前を過ぎた所から直角にカーブをとって南に曲がり、四日市驛の電車のホームへ入った。四日市驛からは鉄道と並行して走り、阿瀬知川から分かれ鹿化川の手前で交差して、そのまま南下し、海山道驛へ向かって走っていた。

駅から北へ 東海道〜諏訪神社間の様子

 三重鉄道の八王子線は、旧式のボンネットバスのタイヤが鉄輪になっている車両で線路を走っていた。皆はこれをガソリンカーと呼んでいたが、本当の名前は“軌道自動車”であった。

 湯の山線の電車は車両幅が狭く、長さも短く、窓はガラス戸とよろい戸があってともに上下して開閉した。両線とも線路は狭軌で小型の車両だったので、軽便と言っていた。

 

新 諏訪駅物語④移動する諏訪駅

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昭和5年の地図。諏訪驛は東海道沿いにある。

以前、諏訪驛の構内図を描いたことがあった。東海道を挟んで北驛と南驛があった。

戦前の諏訪駅の航空写真。昭和18年か19年に撮影されたと想像できるが、空襲以前にはすでに諏訪駅は北岡さん横に移動されていたようだ。諏訪公園南側には、駅のホームらしきものが出来ている。

空襲後、昭和21年か22年頃だろうか?すでに諏訪駅がある。キタオカさん南の諏訪駅は 空襲後に出来たのか?いつだろうか?

昭和31年頃。諏訪駅は廃止されて新しく短絡化でできた近鉄四日市駅が姿を現し始めた。国鉄四日市駅と諏訪駅を結ぶ線路はまだ敷かれたままだ。

新 諏訪駅物語⑤戦後の諏訪駅

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下の三つの図は それぞれ 大正6年・昭和6年・昭和35年の諏訪駅移動図である。三重鉄道が四日市鉄道を吸収して 三重交通が引き継いでいる。そして近畿日本鉄道は、昭和31年9月の短絡化で塩浜から現在の近鉄四日市駅へ斜め直線に通るようになった。新正町の1号線高架をまたぐと「そろそろ四日市だ」という思いになる。

真ん中の図、大正6年の「すわ」は 東海道沿いの駅である。戦後の諏訪駅はわずか10年ほどの命だった。この駅は昭和何年に出来たのだろうか?諏訪駅看板の庇の下に切符売り場があり、右へ 改札口を抜けて庇の下を通り(写真右へ)ホームへ出た。

戦後の諏訪駅 古い機材で建てたのか 新しさはなかった 

諏訪駅構内

写真右から(少し隠れているが)近鉄名古屋線の上りと下り・湯の山線・内部線・八王子線と並ぶ。

新 諏訪駅物語⑥短絡化と広軌化

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昭和31年9月、近鉄線の短絡工事が完成して、海山道駅から現在の近鉄四日市駅まで直線で結ばれた。それまでは、関西線と並行して国鉄四日市駅に一旦入り、善光寺カーブを経て諏訪駅に向かった。

昭和27年10月30日、海山道〜鹿化川分岐間の短絡工事が終わり。昭和31年9月23日鹿化川分岐〜四日市新駅舎〜川原町駅間も竣工した。これで従来の諏訪駅が廃止されて1.1キロメートル、時間にして約4分短縮されたわけである。

以前は、大阪線の広軌(1435ミリメートル)と名古屋線の狭軌(1067ミリメートル)との線路幅の違いから、伊勢中川駅での乗り換えが必要であり、昭和20年から広軌への変換工事が始まった。

名古屋線の広軌化は昭和33年9月から準備がすすめられたが、昭和34年9月26日、四日市まつりの最終日に伊勢湾台風が東海地方を直撃、この復旧工事で計画より早く完成となった。まさに“災い転じて福となす”デアリマス。

寿町に残る旧線の鹿化川橋梁の橋台

『よっかいち浪漫紀行 北野保著』より

 

新 諏訪駅物語⑦諏訪駅界隈

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辻さんが撮られた諏訪駅前から東向きの写真①。昭和30年頃。右に諏訪マーケット、左にはベニヤさんの看板。その向こう側に便所があった。まっすぐ進むと左に三泗百貨店が建っていた。その後スーパーサンシとなる。学校帰りの女高生の姿、午後3時半ころか?

本町の水谷さんからお預かりした、逆方向(西向き)の写真②。右手前に便所、ベニヤさんの看板は骨組みだけだから、1年ほど前だろう。左に乾物屋のマルトさんの看板が見える。正面に諏訪駅の構内へ入る屋根がある。

諏訪駅構内近鉄線ホームの西の端に立って撮られた写真③。湯の山線がまっすぐ伸びて、桑名へ北へカーブする近鉄線。右端に天理教の建物が見える。

南口が正面だったが、北口もあり、どぶ川が流れていた。諏訪マーケットが南口にあったので、北口はあまり印象にない。

もう1枚カーブの線路を取られた写真。水谷さんからお借りした。ここがどこか分からない。右の東洋商事四日市営業所の建物がある。その向こうに立派な建物があって、踏切をを学生さんが渡る。ここはどこだろうか?

昭和30年頃。近鉄四日市駅が出来上がりつつある。街が大きく変わろうとしている。

 

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