大正11年に建った四日市西駅舎内の様子が「旧四日市を語る 第1集」に書かれていました。岡野繁松先生お許しください。
昭和7年(樹林社刊 四日市の今昔より)
西駅は省線(国有鉄道明治40年)の関西線になってから、大正11年に四ッ谷町に開設された。外壁は白亜、屋根がスレートぶきの西駅舎は、東駅の古びた駅舎に比べるとスマートであった。駅舎は東駅と同じ北向きで前には広場があった。駅舎の右(西)には売店と便所があり、左には欧風を思わせる桟の多い電話ボックスがあった(入口の左に街路灯と電話ボックスがみられる)。駅舎の中に入ると両側は待合室になっていて天井にはプロペラ型の扇風機が吊るしてあり、木製の長椅子がいくつかあった。右側には切符売り場、左には小荷物受け渡しの窓口があり、大きな秤が置いてあった。正面が改札口で、右に折れると参宮急行(電車)、左には関西線(汽車)の乗り場へとつながっていた。汽車に乗るには左へ階段を登り陸橋を渡ってプラットホームへ降りた(東口からも陸橋へ上がれた)。陸橋を渡るとき汽車の煙がもくもくと上がってきて咽たりした。そのうえ、汽笛が真下で鳴って驚かされた。
出口専用の改札口が駅舎の東側にあり、ホームから陸橋を渡って階段を下りると、この改札口に出た。待合室の東寄りに腰掛けて窓から見ていると降客がよく分かった。迎えに行ったときなどは此処で待った。改札口は汽車、電車ともに共通であった。電車に乗るときには、線路が複線になっていたのでどうしても一方の線路を渡らなくてはならなかった。駅員が転轍している様子がよく見えたし、阿瀬知川の南側(昌栄町)にあった操車場で機関車の向きを変えているのを飽きずに眺めていたことを思い出す。(東駅は関西堀を背に北向きに建っていた)
午起に夏季の間だけ臨時停車駅ができた。夜汽車の汽笛が当時は家(八幡町)にまでよく聞こえた。哀愁を帯びた音であった。おそらくは、そのころはさえぎる大きな建物が少なかったからではないだろうか。
午起海水浴場へはバスで行った。おふくろに手を引かれてバスを降りると正面に堤防がそびえたち、堤防を越えると海水浴場の世界が広がっていた。哀愁を帯びた音といえば、夜遅く聞こえたチャルメラの音が思い出される。布団の中で怖いもののように聞いた。