怒り狂って、京都への突入を画策する攘夷派を前に、あまり気乗りがしない高杉晋作は「俺がまず、乗り込んでやる」と先行し、桂小五郎と一緒になって、祇園で毎日酒を食らっていました。
8月20日行われた商店連合会視察旅行では、京都の祇園で昼食をとりました。
軒を並べるお茶屋。この奥に仕出し屋がある。
祇園花街には、お酒や料理を味わいながら舞妓さんや芸子さんの芸を楽しむ「お茶屋」、舞妓さんや芸子さんが住まいする「置屋」、そして料理を作る「仕出し屋」から成り立っています。お茶屋は、一見さんお断りで、紹介がないとは入れないということ。これは、仕出し屋から自転車で一品ずつ運ばれてくる料理で充分なおもてなしをするためです。今回は団体でしたので、多分、軽自動車だったのでしょう。カナ?
舞妓さんは20歳位まで。振袖でだらりの帯、季節の花やかんざしをつけています。髪は一度結うと1週間はそのまま、寝る時も箱枕を使うそうです。会員である別所さんの孫さんが舞妓さんで商連一行を迎えてくれました。「どうして舞妓さんに?」の問いかけに「やってみたかったから」と現代っ子らしい返事、思い切ったことが出来るものです。
一方、芸子さんは大人の姿。着物の袖は短く、帯もお太鼓結び、頭には日本髪のかつらをかぶりかんざしを使う際にもシックなものになります。
お茶屋の並ぶ花見小路と八坂神社から西に延びる賑やかな四条通りの角に一力亭があります。歌舞伎の仮名手本忠臣蔵で有名。近藤勇、大久保利通、西郷隆盛も利用していました。昔は四条通沿いに玄関がありましたが、明治時代に市電が通り、路が広げられて賑やかになった為、表通りから控えて、花見小路側に変わったということでした。
花見小路側から見た一力亭
昔、このあたり一帯は八坂神社の境内だったそうで、明治時代に行われた廃仏毀釈の影響で名前が「祇園社」から「八坂神社」に変更されたということ、花街一帯は祇園社の境内でした。それが祇園の名前の由来だそうです。
解説は、9月28日発行の「ブラタモリ13」から盗ませていただきました。スンマセン