前に、四日市郵便局電話分室が何処にあったのか?という記事を書いた。
左、電話分挽局
四日市の100年に、四日市電話局 諏訪新道 昭和10年という写真が出ていた。「電話分挽局」と比べるとずいぶん立派な建物だ。
この建物が、新道通りの電話局か?
同じ四日市の100年。昭和18年町内ラジオ体操の写真。ここに電話局の建物を見つけた。ところが「子供も大人もひとつになって、町内の連帯感を強くした。電話局隣の空き地にて」と書いてあった。やはり電話局である。横の通りは諏訪新道 沖の島。川口理容館の看板が見える。
「旧四日市を語る 第十集」にこうあった。
旧四日市で新道といえば諏訪新道(辻といえば北町と南町の境の交差点というように)この新道には郵便局・電話局があった。電話局時代には南側と東側に大砲の玉を柱にして、それを鎖でつないだ柱があったが、金属回収で無くなった。その前あたりに川口床屋、その並びに『びんや』いわゆるガラス屋。そこが小林さんの家やった。
さて、空襲直後の郵便局。電話局の建物の配置を見て欲しい。外観は何とか保っているが、建物が二つあるように見える。これはナンだろか?
昭和29年には、現在の場所に電報・電話局として工事中です。