ペスト災禍
大正5年10月8日 東洋紡績四日市工場の仲仕の子供二人が耳下腺炎で急死、鈴木警察医が検診したところ、疑問に感じ、県防疫員の精密検査の結果、11日午前3時に疑似ペストと決定された。市は早速、役所内に臨時防疫事務所を設置し、東洋紡績工場を中心として浜町一帯を亜鉛版で囲み、区内58戸268人を遮断して、患者の家の大消毒を行った。一方、ペスト予防心得を印刷して全戸に配布、各町代表による協議を行った。
三重検疫委員部出張所(稲場町)
その後、患者が続出した紡績会社内及び浜町・北条町の消毒を厳行し、患者収容のため市立伝染病院には亜鉛版をめぐらし、病室一棟を改築、手術室・細菌室を建築した。
消毒方法施行(浜町)
また健康者隔離所としては尾上町市有地に隔離病室二棟、炊事場など工賃2,500円をかけ10月11日に起工し、25日一部完成を待って一時的に第六尋常小学校に収容されていた健康者を移した。
健康者隔離所(尾上町)
当時としては強力な最新治療と防疫体制で対処されたが、罹患患者は61人、内死亡54人、周辺の下野村と海蔵村でも各1人が死亡した。侵入経路は、インドから四日市港へ輸入された印度綿に付着していたものと推定された。
全市に殺鼠剤を配布(西袋町)
その年の暮れ、大正5年12月27日、市民有志によって諏訪神社で終息報告会を行い、諏訪神社で祝賀会を開いている。
※ 写真は、目で見る四日市の100年より掲載