先日のブログで イスファハンの涙壺 のことを屁呂之進さんが話していたのが気になり Webで探してみた 五木寛之氏が愛媛新聞に掲載してみえたので 紹介する
以前、イランの古都イスファハンで、古物商の店先に美しい涙壺をみつけた。店主の老人に値段をきくと、べらぼうに高い。
「残念」とつぶやいて」店を出ると、現地ガイドの人からこんなふうにたしなめられた。
「この国では商売は単なるビジネスではありません。あの店の主人にとっては、それは一つの生きがいなのです。
まず店に入って、欲しいもののほうへまっすぐ行くべきではない。何気なくあちこち眺めて、ふと気づいたようにお目当ての品を手に取る。これはどういう品ですか、と質問してください。お店の主人は、古代ペルシャのガラス器について滔々(とうとう)と語りだすでしょう。その時彼は学者になる。そして、これは売りたくない、という顔で品物を引っこめる。そのときの店主は、俳優であり役者として演じているのです。あなたが高いといえば、彼は老練なビジネスマンとなる。途中で紅茶が出てきます。
友人として和やかに語り合い、再び議論が始まるでしょう。老店主は政治家のように雄弁に語り、詩人のように涙壺の由来について述べる。そこで二度目のお茶が出てきて、次第に値段が折り合ってくる。そして何時間かの時間が流れ、やがて双方が合意に達する時が来ます。
取引を終えたあと、老店主は、きょうはじつに良い日だった、と神に感謝しつつあなたを見送るのです。向こうも満足する。あなたもお目当ての品を努力して手に入れた歓びにひたることでしょう。
商売は単なる取引ではありません。あなたは今日、貴重なチャンスを逸したのです。残念でしたね」
飛行機ばかりに時間を気にして、そそくさと土産の品を購入しようとしていた私が間違っていたのだ。せっかちな国民性をつくづく反省させられたものだった。しかし、なあ。
バブルがはじけた30年前の事である。それまでは 売り上げ売り上げとあくせくしていた私たちに ふと気づかされた良いお話だった