市制からの眺め 16
四日市港の埋め立てが盛んにおこなわれ、工業地帯の基盤が形成されていった。気になったのは、大正10年、四日市港は名古屋港に追い越されたという。それまではなぜ伊勢湾でトップだったのか?明治期の産業からさかのぼって調べてみたい。 十二間道路完成(大正13年)相生橋を背に西方向に向かって四日市駅方面を見た絵 埋め立ての終わった四日市港の2号地(大正14年)対岸にみえるのは末広町 昭和11年には大博覧会会場となる
View Article集団の妄想に惑わされることなく・・・
イタリアの校長 ドメニコ・スキラーチェさんの生徒に送った言葉 みなさん 学校は休校になりましたが お話しておくことがあります 当局の慎重な判断を尊重しますが 皆さんには冷静に集団の妄想にとらわれることなく 必要な予防をしたうえで「いつもの生活を送って下さい」と言いたいです こんな時だからこそ 散歩をしたり 良い本を読んだりしてください 元気であれば 家に閉じこもっている必要はありません...
View Article懸けた情けは・・・今週のご挨拶
職場体験に来ていた某くんの就職が決まった。このご時世に 何よりも喜ばしいことだ 「これからハローワークの方にお礼に行きます」言葉を残して某くんは出ていった。その方は就職先の相談に乗っていたらしい。「受けた恩は石に刻め」15年前の旅先で 参道の碑に彫ってあった言葉を思い出した
View Article閑話休題 四日市幼稚園
伊勢の国の下総人さんが 四日市幼稚園と浜田小学校の出であることを コメントで知りました 昔、四日糸幼稚園の配置図を手に入れて このブログで紹介したのですが 見当たりませんでしたので 再々掲載をさせていただきます 是も再々掲載ですが 名古屋タイムスさんの昭和28年の記事が 大変面白いので 未読の方は読んでみてください 四日市幼稚園の配置図と写真です 僕の組は 便所の香り漂う①の星組でした...
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昭和27年3月25日から4月23日まで、国道1号線を正門に施設途中の中央通りを会場に、講和記念 全日本農機具 新日本産業 大博覧会が開催された。自分はまだ小さい頃だったのでほとんど記憶にないが 会場跡の草むらで トノサマバッタを採っていた記憶がある。この後会場内は 中央通り(別名70メーター道路)へと整備されていく。 正面入り口の賑わい 会場内の様子
View Article市制からの眺め 18
昭和27年春 開催された 講和記念大博覧会 その正面入り口は 現在の三滝通りと中央通りの交差点 北側からが入り口だった 市役所屋上から撮られた写真 会場内配置図 北南が逆になっている 中央を南北に国道一号線が横切る ここは内部・八王子線が横切る 黒い建物は川村鉄工か?とすると その向こうの木森は諏訪公園になる 太陽堂の松永さんが売店でカレーライスを100円で販売したら...
View Article市井からの眺め 19
伊勢生まれの下総人のさんからメールが届きました ありがとうございます 昭和27年の講和記念博覧会は 記憶がおありのようです 四日市パノラマが斜めになっていたとコメントしてみえましたが その写真です どうやら未来の四日市がテーマのようです そして 昭和11年の国際振興大博覧会時に 千歳町の会場内に出来た迎賓館は 昭和27年の博覧会時に市役所横へと移築されました この時はまだ迎賓館の名前で出ています...
View Articleイスファハンの涙壺のお話
先日のブログで イスファハンの涙壺 のことを屁呂之進さんが話していたのが気になり Webで探してみた 五木寛之氏が愛媛新聞に掲載してみえたので 紹介する 以前、イランの古都イスファハンで、古物商の店先に美しい涙壺をみつけた。店主の老人に値段をきくと、べらぼうに高い。 「残念」とつぶやいて」店を出ると、現地ガイドの人からこんなふうにたしなめられた。...
View Article市井からの眺め 20 四日市音頭
昨日 藤井氏がおみえになり ひと喋りしていった 「そういえば 四日市音頭 ってあったなぁ」ということで 早速検索していったら わたくしのブログにあたりました 2010年7月の事 商店連合会の席で見せていただいたことがきっかけでした...
View Article市井からの眺め 21
昭和という時代は、金融恐慌で始まりました。太平洋戦争へと突き進む不穏な時代ですが、四日市の産業は意外と元気です。東海の飛び将軍と呼ばれた熊沢一衛は 昭和3年6月に伊勢電鉄事務所(本町プラザの前の建物)と市立図書館(諏訪公園内)を建てます。どちらもスクラッチタイル張りの鉄筋の建物であったため空襲後も残り、図書館は一時病院に、電鉄事務所は四日市警察署に使用されました。...
View Article市井からの眺め 22
昭和52年8月1日発行の「年表 四日市のあゆみ」は、市制80周年記念として市が全戸に配布した。ここに、以前紹介した四日市市歌(佐々木信綱 作詞・伊藤亘行 作曲)とともに、現在でもおなじみの「大四日市まつり音頭」が掲載されている。 揃い衣装の踊り子揃うた ハイ ハイ ハイ 櫓かこんでひと踊り ひと踊り サテ ひと踊り ハイ ハイ ソレまつり音頭で シャン シャン シャン サテまつり音頭で ヨイ ヨイ...
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実業家仲間が集まって立ち上げた四日市倉庫は 昭和7年 不況のあおりを受けて仲間は離散 残った小菅氏が後を引き継いだそうです 昭和15年12月 大政翼賛会が結成され 日本は太平洋戦争へと突入していきます しかし 四日市市の産業を眺めると 意外と元気です(戦争は産業を活性化させる?不謹慎でしょうか?)こうして惨憺たる状況に突っ込んでいきますが・・・ 昭和13年の四日市です 公会堂と商工会議所は...
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元気だった四日市の産業は、戦況が悪化するにつれ、目に見えて弱体化が進んだようだ。事業所の合併が進み国の方針に従わざるを得なくなる。昭和18年 平田漁網は織物機械を軍に供出している。昭和18年5月、午起海岸(海水浴場)で起工式を迎えた浦和ドッグは、木造の造船所だったので、空襲の際には、火だるまとなった船の形が、まるで仕掛け花火のようだったという。当時の起工式の様子(写真集 四日市の100年より)...
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昭和20年6月から7月にかけ 四日市は空襲で焦土となる。早朝 米軍の飛行機が市街を撮った。朝日に反射した屋根が白く光っている 下では瓦礫の方付けに追われているのか 疲労困憊しているのか 分からない。札ノ辻あたり 中心市街地の被害が特に目立つ。 店を守るために祖父と親父は四日市に残った 片付けが済んで 再開できるようになったら 疎開先から皆を呼び戻そう 二人はそう考えながら...
View Article市井からの眺め 26
昭和26年から28年までをまとめてみました。(市政80周年記念 四日市のあゆみより)ひたすら復興に向かう様子が年表から伺われます。26年2月の駅前大火は、国鉄駅前であったことに気づきました。当時はまだ諏訪駅でしたから。27年開催の博覧会に出品された平和の女神像は、中央ロータリーの中心に立てられます。そして、やはり四日市には港の発展が欠かせません。 昭和26年 昭和天皇の巡幸 昭和31年...
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