博覧会大好き日本人。欧州では第1次世界大戦が起き、日本はドイツに宣戦布告を行った。つかの間の好景気が訪れた大正3年、東京大正博覧会が3月20日~7月31日まで、当時の東京市の上野公園地をおもな会場として開催された。入場者数は、およそ750万人。
会場内では芸妓の存在が目立つもののひとつとなっており、「博覧会新曲の題目や出演者、稽古の様子の写真、博覧会 出演をめぐる芸者組合同士の争いなど」が盛んに新聞で報じられた。芸妓たちは場内の演芸館に出演したほか、園遊会などにも姿を見せ、これを捉え、また後述の美人島旅行館の存在も踏まえて、この博覧会を「美人博覧会の観」があると批判する議論もあった。
正門
美人島旅行館は、第一会場の中心に設けられており、「美人百名募集」の呼びかけに応じた女性たちが、様々な趣向で扮装し展示、コンパニオン(「女看守」と称された)として接遇にあたった。女性たちの中には「教育あるハイカラ婦人」も少なからず含まれていたとされ人気を博したが、展示の「幼稚」さや、性的な色彩を批判する議論もあった。
この博覧会では伝染病研究所などが出展した衛生経済館もあったが、これとは別に、二六新報社による通俗衛生博覧会が設けられ、人体の臓器などの実物標本や、模型類、写真等が展示された。中には、東京帝国大学医学部から貸し出されたという「高橋お伝の全身の皮膚」なども展示されていた。
会場内風景
第一会場と第二会場を結ぶエスカレーターは、「秒速1尺」の速度で動き、料金は10銭であった。高さは10mほどあったと推定されている。来場者の数を増やすためには、見世物的な興行が必須と考えたのだろうか。四日市もこうした東京の博覧会に大いに刺激を受けたはずであるが、子供をターゲットにしたりで、ずっとおとなしかった。そういえば幼少のころ、公会堂で開かれた展示会では、アルコール漬けにされた刺青の皮膚の展示を見た記憶がある。 (ウィキペディア より)