大正11年の夏、島 英雄は父親の安次郎から「一度遊びに来い」との連絡を受けた。秀雄は満州に向かうことにした。『亜細亜新幹線』前間秀則 講談社文庫
「そのころ、高校生でも満州へ行くのはそれほど珍しいことでもなかった。大学へ行ってからは何回も満州へ行った」と秀雄はさりげなく語る。
大正8年、島 安二郎は広軌改築の採用が一転して取りやめとなったため、抗議して鉄道員を辞職した。この後、請われて南満州鉄道へ入ったのだ。
秀雄が列車で東京から門司まで行き、そこから一晩船に乗れば、次の日は、朝鮮半島の南側付け根を奥深く入った渤海の入り口にある大連に着くのである。
大連
帝政ロシアの時代に、東洋のパリを目指して建設されただけあって、大連は美しい石造りの建物が並ぶ風光明媚な地であった。
奉天
街を見物した後、列車で奉天まで行きそこで下車して1,2日見物して遊んだ。露天堀の炭鉱として有名な撫順まで足を延ばして、日本では目にしたことのない、壮大な採掘風景の迫力に感心した。
ついでに近くの鉄道研究所を見せてもらい、更に清朝時代の大きな墓や宮殿も見物した。
またも満鉄に乗っていくと長春(のちの新京)があり、方角を東に変えて朝鮮半島を横切っていくと、水田のような池に船を浮かべ、金を採取している光景が広い範囲にわたって認められた。日本では見られない大陸ならではの光景だった。
大正期における朝鮮半島の金鉱床の分布
昭和7年3月に満州国が誕生し、鉄道経営は満鉄に委託された。日本の鉄道省からは約4000名の職員が加わって、満鉄の運営にあたった。今後増加が予想される輸送量に対応するため、広い大陸を高速で突っ走る超特急列車の導入が望まれた。昭和9年、こうして『あじあ号』は誕生することとなる。
時を経て昭和39年、島 英雄は東海道新幹線プロジェクトに大きくかかわることになる。
※ あじあ号のプラモデル54,280円也