市井からの眺め44弾丸列車③
もうちょっと、あじあ号のことを書かせていただきます。 日露戦争(明治37年)に使った戦費18億2629万円余(当時の国家予算は2億5000万円)と、戦死者11万5600人の犠牲の上に辛くも勝利した日本が、ポーツマス条約によってロシアから得た戦利品は、樺太の南半分とロシアが管理していた遼東半島南端の関東州の租借権、それと長春から大連までの鉄道と付属地だけだった。「実験国家...
View Article市井からの眺め45弾丸列車④
<ゴールデンウィーク特集 幻の弾丸列車④> 島 安次郎は、和歌山県和歌山市出身で、薬種問屋の「島喜」の4人兄弟の次男に生まれ、東京帝国大学工学部を卒業している。エリートでアリマス。 島 安次郎明治27年、関西鉄道・かんせいてつどう(四日市工場)に入社し、高性能機関車「早風」を投入するなど機関車の改良、等級別車輌に尽力した。 明治40年西末広町にあった関西鉄道本社...
View Article市井からの眺め45弾丸列車⑤
明治3年、島 安次郎は和歌山に生まれた。 明治21年3月1日四日市浜田に資本金300万円で関西(かんせい)鉄道㈱は設立された(民営でのスタートである)。明治23年1月、関西鉄道整備工場を浜田に設置(下の明治44年の地図を見ると、当時は四日市駅西側も濱田だったのか?)。 三重軌道・四日市鉄道(赤で予定になっている)の開通は大正時代に入ってから 明治23年12月...
View Article市井からの眺め46弾丸列車⑥
島 安次郎氏の四日市での偉業を中心に書かせていただきます。 明治27年、帝国大学の機械工学科を卒業した島 安次郎は、私鉄の雄・関西鉄道(四日市)に入社し、すぐさま技師長のような役職に就いた。『亜細亜新幹線』 前間孝則 講談社文庫より...
View Article市井からの眺め47弾丸列車⑦
大正11年の夏、島 英雄は父親の安次郎から「一度遊びに来い」との連絡を受けた。秀雄は満州に向かうことにした。『亜細亜新幹線』前間秀則 講談社文庫 「そのころ、高校生でも満州へ行くのはそれほど珍しいことでもなかった。大学へ行ってからは何回も満州へ行った」と秀雄はさりげなく語る。 大正8年、島...
View Article市井からの眺め48弾丸列車⑧
<軌道を中心に> 政府は、明治5年9月12日、英国のエドモンド・モレル技師に頼んで新橋〜横浜間に陸蒸気を走らせた。この時の線路の幅は、1,067mm、国際基準軌の1,435mm(広軌)と比べて狭く、狭軌と呼ばれている。ちなみに国際的に広軌と呼ばれているのは1,524mmあった。(参考まで、あすなろ鉄道は特殊狭軌といわれて、760mmである)...
View ArticleNo.49椙山氏の思い出の写真をめぐって①
伊勢生まれの下総人さんから『鉄道資料』が届いた。京都が本部の鉄道史資料保存会が発行したもので、1979年7月刊とある。かなり専門性の高い本で、各地の列車の写真や図面、それに時刻表等が掲載されている。ここに椙山 満先生の投稿があったので紹介させていただく。 最近(昭和54年)私の周辺でここに紹介する写真が発掘された。タイムトンネルをさかのぼって説明を加えたい。 駅舎は北向きだった...
View ArticleNo.50椙山氏の「思い出の写真をめぐって」②
明治44年 引き続き、椙山満氏の「思い出の写真をめぐって」から紹介します。 写真③ 今日の駅舎跡風景 そこから南へ進むと 関西堀の跡のカーブが残る 前回掲載の四日市駅舎の東側(写真の左)。欧米風のハイカラなポーチに柱が何本も立ち並ぶ。貨物駅入り口の木戸を背に北向きに眺めた写真。この駅舎は創業当時から昭和20年6月の戦災で焼失するまで関西鉄道そのままの姿で存在していた。 駅舎の南から駅前を覗くと...
View ArticleNo.51椙山氏の『思い出写真をめぐって』③
関西鉄道四日市整備工場の遠景。四日市駅東側(左)の貨物ホームに沿って石畳をゆくと 運河の向こうには明治23年に創業の関鉄鉄道四日市整備工場が赤レンガの欧風姿で煙を吐いているのが見えた。...
View ArticleNo.52椙山氏の『思い出写真をめぐって』④
大正11年の地図 関西鉄道四日市整備工場の西方、関西線のレールの更に西側、阿瀬知川のたもとに関西鉄道本社の洋館があった。明治40年同鉄道が国有化されるに及んで、後にこの建物が四日市鉄道本社となった。目と鼻の先に阿瀬知川という停留所のホームがありすみれが一杯咲いていた。 空襲直後の四日市駅周辺...
View ArticleNo.53椙山氏の『思い出写真をめぐって』⑤
全国でも珍しい軽便鉄道の合同駅。1階の右半分が四日市鉄道(四日市〜湯の山温泉)、左半分が三重鉄道(四日市〜室山・八王子と内部行)の乗車場で2階は四日市鉄道と三重鉄道の本社に分かれていた。どちらもこの駅から次の諏訪駅まで並行しており、恰も複線の軽便鉄道のようであった。 場所はどこか?「湯の山温泉行のりば」の看板が立つ 右(西)がわに合同駅入り口が見える この建物の裏側、西に回ってみよう。...
View ArticleNo.54椙山氏の『思い出写真をめぐって』⑥
大正10年11月、四日市鉄道は電化された。三重鉄道(三重軌道)も、四日市〜諏訪間を廃線にして、ここを伊勢電鉄(現・近畿日本鉄道)が買収し電化、昭和4年1月30日に四日市〜桑名間が開通することになる(両鉄道の始発は諏訪駅と諏訪前へ移る)。...
View ArticleNo.55市井からの眺め 閑話休題
四日市駅西側の合同駅の図面を 椙山先生が書いて見えました。再掲載です 下が西です 駅舎真ん中の給水塔が後々まで残っていたそうです 平成元年11月発刊の『旧四日市を語る』の巻頭に、岡野繁松先生が四日市駅のことを記してみえた。これも再掲載です。 四日市驛は、濱田(四ツ谷)にあり、当時は関西線の東駅と西駅があった。東駅は明治23年に関西鉄道の駅として開設されただけあって古い建物でだだっ広い感じであった。...
View ArticleNo.57椙山氏の『思い出写真をめぐって』⑧
Webよりコッペル車 下の写真⑬は、四日市鉄道湯の山駅に到着のロコはコッペル(ドイツのコッペル社製)の1号か2号機。キャブの高さが2153mmの背の低い超ミニサイズのタンクロコである。 客車よりもずっと小さい...
View ArticleNo.58椙山氏の『思い出写真をめぐって』⑨
前回掲載した写真ですが、四日市駅構内のことが書いてありました。 四日市駅東口 本稿組付け後に筆者椙山氏より、更に珍しい写真が到着したので掲載する。四日市駅構内を名古屋方より撮影したものである(大正中期撮影)。...
View Article市井からの眺め59弾丸列車⑨
イザベラ・バードは、明治11年横浜に着いて以来、北海道函館へ向かって旅行を行った。その紀行文から当時の地方の暮らしが詳細に記録されている。この紀行文を民俗学者である宮本常一氏が解説している。「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」平凡社ライブラリーより “理想と現実の同居” ここで、北海道の開拓が非常にアンバランスであることを書いている。...
View Article市井からの眺め60弾丸列車⑩
明治11年、イザベラ・バードは、横浜から新橋まで列車に乗っている。 東京と横浜の間は、汽車で1時間の旅行である。素晴らしい鉄道で、砂利をよく敷き詰めた複線となっている。鉄橋あり、こぎれいな停車場があり、終着駅はしっかりと出来ており、広々としている。この鉄道は、英国人技師たちの建設になるもので、明治5年の開通式には、ミカドが臨幸された。...
View Article市井からの眺め61弾丸列車⑪
Webページを検索していたら、『安芸の国から・まぼろしの弾丸鉄道』にあたった。広島県西部の廿日市市の駅のホームに弾丸鉄道建設当時の杭が残されているそうだ。盗用させていただく。...
View Article市井からの眺め62弾丸列車⑫
下総人さんからお預かりした明治43年1月現在の「管内各停車場平面図」です。 ここに四日市駅の図がありました。明治43年というと、関西鉄道が国営になったのが明治40年ですから、国営後の鉄道構内図ということになります。このころ、島安次郎氏は大阪に移っています。...
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