明治40年、関西鉄道が国有化されるとともに逓信省へ移った島安次郎は、大正7年 国会で広軌論を主張し敗北、退社する。その後、東京帝国大学講師(この時、長男の島英雄は父親の講義を受けている)、南満州鉄道の筆頭理事・社長代理を務め、車両製造メーカーである汽車製造の社長に就任する。
そして、昭和14年鉄道大臣の諮問機関として弾丸列車計画のための『鉄道幹線調査会』特別委員会の委員長に任命されることとなる。なぜ広軌論を主張する島に、国は委員長にしたのか?おそらく、広軌やむなしの雰囲気があったのではと思われる。鉄道のプロ11名により構成されている特別委員会は、計12回開かれた。69歳になる島安次郎にとって、広軌論の最後のチャンス、策定調査費にお金をかけて慎重に進めたいと思っていたのだろう。不眠不休で膨大な資料に取り組むこととなる。
長男の島英雄氏
その中身は、これまで提出された日本や大陸における輸送量の変化、路線の行き詰まり予想。江戸時代からの東京の変遷、内容は人口の増加や分布、道路や町の変化、鉄道の増設、鉄道政策の変遷。先の諸外国の鉄道事情。超鉄道列車に伴う鉄道技術、電化、信号、トンネルほかの諸施設の変遷と現状。参考にすべき諸外国の超高速鉄道の技術の実情。法規上の手続き、路線ルートにあたる地主、現存物、利権。通過する各都市の人口や輸送量の実情。今後の予測。新しく建設する停車場(駅)構想。周辺の問題から、朝鮮海峡の調査、港湾施設、連絡船の増強計画。悪戦苦闘した世紀の大事業丹那トンネルをもう一本掘ることに伴う問題。幹線鉄道とはこうした膨大で総合的な調査、見通しを行った後に、取り掛かる判断が下されることになるのだ。国の諮問機関で委員会が開催される昨今ですが、これだけの徹底した調査のもと決定が下されているのだ、と政府を信用しています。
Web「貴重映像!満鉄「あじあ号」の機関車が動いた」 より