市井からの眺め63弾丸列車⑬
大阪の湊町は関西鉄道の終点、 明治42年 山田は参宮線の終点です。 明治42年 引き込み線を多く持っているのは当然ですが、明治42年、四日市港の整備もいまだ出来ていない時代に(工場誘致のための国際振興博覧会<訂正:国産振興四日市大博覧会>は昭和11年でした)四日市駅にこれだけの引き込み線が必要だったのかな? 明治42年...
View Article閑話休題 イザベラバードの旅②
宮本常一氏は「日本奥地紀行を読む」でこう書いてみえます。 プライバシーがほとんど問題ではなかったということは、逆にお互いが安心して安全な生活が出来たということです。我々の生活を周囲から区切らなきゃならない時には、すでに我々の生活が不安定になっているということです。...
View Article市井からの眺め64弾丸列車⑭
昭和7年に鉄道省に入った竹内外茂技師は東大工学部機械学科に入学している。島安次郎の長男 島英雄の7年後輩である。彼は“弾丸列車計画”を初期のころから担当することとなる。...
View Article市井からの眺め65弾丸列⑯
明治40年、関西鉄道が国有化されるとともに逓信省へ移った島安次郎は、大正7年 国会で広軌論を主張し敗北、退社する。その後、東京帝国大学講師(この時、長男の島英雄は父親の講義を受けている)、南満州鉄道の筆頭理事・社長代理を務め、車両製造メーカーである汽車製造の社長に就任する。...
View Article市井からの眺め66弾丸列車⑰
特別委員会は、昭和14年8月23日に第6回が開かれ、島安次郎は多忙な日々を送っていた。この頃、ドイツは日独伊の三国同盟を提案してきているが、日本が、軍と外務省の間で侃々諤々の議論をしているうち、突然8月23日に、独ソ不可侵条約を結んでいた。ソ連の戦力が東アジアに集中しやすくなった訳である。...
View Article市政からの眺め68弾丸列車⑱
昭和15年の「鉄道幹線調査委員会」で発表された幹線ルートについて竹内外茂氏は話している。 「その当時、こうあるべきだと思って、やろうとして出来なかったことは、予定していた電気機関車から『蒸気機関車にしろ』と変更されたことと米原ルートに変えたことですが、この二点を除けば、現在の新幹線は我々が当初計画した構想の“生き写し”ですよ」と話す。...
View Article市井からの眺め69弾丸列車⑲
昭和17年、大東亜共栄圏建設の号令で、新幹線構想は単に日満支三国にとどまることなくインド以東、南太平洋も悉く含めた、広域経済圏を意味することとなった。タイとビルマの国境付近に鉄道を敷く映画「戦場にかける橋」は、ちょうどこの頃、昭和18年のお話である。...
View Article市井からの眺め71関西鉄道①
話は明治の頃にさかのぼる。明治20年〜30年代、関西鉄道(かんせいてつどう)と官営鉄道(国鉄)は、乗客獲得をめぐって激しい攻防戦を繰り広げた。 明治40年 関西鉄道路線図...
View Article市井からの眺め72関西鉄道②
島安次郎は明治3年、和歌山県の薬師問屋に生まれた。四人兄弟の次男である。店は、商業地であるお城の北、鷺森別院前の通りにあった。屋号を「島喜」といい和歌山県薬業誌には、父喜兵衛について短い記述がある。「島喜兵衛、安政年間の開業。世事に通じ、よく業界に尽くした人」。温厚な人格者だった。...
View Article市井からの眺め73関西鉄道③
話は江戸末期にさかのぼる。嘉永7年1月、2度目のペリー浦賀へ来日の際には機関車の長さ2メーター42センチという大きな模型を持って来た。これを横浜応接所の裏庭に円形のレールを施設して走らせた。「火発して機活き、筒、煙を噴き、輪、皆転じ、迅速飛ぶが如く」幕府役人たちは蒸気機関車にはよほど驚いたらしく、汽車を見るために皆さまざまな理由を設けては、裏庭に集まったという。 大隈重信...
View Article市井からの眺め76関西鉄道⑥
父喜兵衛が、安次郎を前に座らせ「東京大学医学部へすすめ」といった。しかし、安次郎は機械工学の道へ進んだ。この変化を物語る材料は何一つ残されていない。多感な頃、人は思わぬきっかけで進路を変える。おそらく、父の意向に反したことを、故郷和歌山の空を思うたびに、かすかな痛みを感じていたのではないだろうか。...
View Article市井からの眺め77関西鉄道⑦
維新後30年、日本人にとってまだまだカタカナにはなじみがなかった。ナスミス・ウイルソン社製といわれても、むつかしいものだと思っていたに違いない。そこで日本名を付ける。関西鉄道にはなかなか趣味人が多い。「池月」「雷」「駒月」「小鷹」「友鶴」「隼(はやぶさ)」「鵯(ひよどり)」「千早」「春日」「三笠」「飛龍」「鬼鹿毛(おにかげ)」「雷光」「早風」「追風」。 磨墨...
View Article市井からの眺め78関西鉄道⑧
明治31年11月28日、関西鉄道名古屋・網島間の全通は、官設鉄道と名古屋・大阪間で競争をする要素となった。島安次郎が、関西鉄道から鉄道院へ入省する10年ほど前のことである。...
View Article市井からの眺め80関西鉄道⑧
明治36年11月20日協定解除になると、関西鉄道は、運賃の低減に積極的に乗り出した。鉄道作業局(官営鉄道)も運賃値下げに応じて名古屋~大阪間の旅客運賃を値下げした。翌37年1月11日関西鉄道がさらに運賃を低減すると、鉄道作業局でもこれに対応して運賃低減を行い、貨物についても誘致に努め、競争は激化の一途をたどった。...
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