明治41年3月 原敬逓信大臣主催の“鉄道国有記念園遊会”が、有楽町の三井集会所で開催され、私鉄出身者と官僚出身者1000余名が参加した。庭園には天幕が張られ、新橋芸者の手踊り、中国人の手品、桃中軒雲右衛門の浪花節などが披露された。
かくして、鉄道院初代総裁に後藤新平が就任した。後藤新平とは、どのような人物だったのだろうか。老川慶喜著“日本鉄道史 大正・昭和戦前編”中公新書より
後藤新平
安政4年6月、岩手県奥州市に生まれた後藤新平は、福島県の医学校卒業後、愛知県病院医院長となった。その後、ドイツ留学をし、帰国後 内務省衛生局長に栄転、日清戦争が終結すると台湾総督府民政局長官となった。
旧台湾総統府庁舎
現在の台湾 彰化駅
彼の鉄道との縁は、当時、台湾のインフラ整備に携わり、その一環として基隆港から高尾港までの台湾縦貫鉄道の敷設事業にかかることによる。しかし、日清戦争の反動不況で台湾鉄道の設立は頓挫した。かれは、鉄道敷設事業が私鉄では困難とみて、臨時台湾鉄道敷設部を、国の鉄道部に改組して、日露戦争勃発を機に軍と掛け合い、明治41年基隆〜高尾間の縦貫鉄道を開通させた。この時、すでに後藤は台湾を離れ南満州鉄道総裁に就任していた。
鉄道国有化が実施されると、以前から問題になっていた広軌改築が議題に上がり、衆議院で「広軌改築鉄道準備委員会」が公布、43名の委員が任命された。会長に総理大臣の桂太郎、副会長に広軌論派の後藤新平が就任する。3回にわたる広軌委員会の報告として、広軌改築は輸送力の増大と営業費の減少をもたらし、更に本州線から全国の鉄道に及ぼしていくべきというのが委員会の見解であった。しかし、明治44年、桂内閣が総辞職に追い込まれて広軌改築は中止となる。
大隈重信
大正3年、大隈重信が総裁に就任すると、仙谷貢鉄道総裁による広軌論の巻き返しが図られた。内閣に軌制調査会が設置され、会長に大隈重信、委員には鉄道院、大蔵省、陸・海軍、農商務省、逓信省などの官僚16名によって構成されていた。
そして、これらの正規の委員のほかに、鉄道院工作局長の 島安次郎 が会議の都度列席することになっていた。