四日市の生命は港にあり。而して四日市の港を、今日のごとくに改築したるものは実に、稲葉三右衛門氏となす。(明治40年発行“四日市志”より)
本町の水谷宣夫氏からお借りした“四日市志”は、明治40年2月、小学校の委嘱を受けて山崎清治、星野吉五郎、佐藤一海氏ら3名で編纂された貴重な書籍である。
稲葉三右衛門は、1837年生まれで回船問屋の養子となる。25歳の時、徳川家御本丸御普請御用途へ、29歳の時に徳川家御進発御用途へ上納金を納めたので“稲葉”の名字を末代まで名のることが許された。
四日市港の着工が35歳の時(明治6年)、男盛りであるが若い。15年の年月を経て50歳の時(明治17年)港を完成させた。途中、財産尽き果て工事は中断、かわって県が事業に乗り出すも、裁判を起こし、東京の内務省に願い出て我が事業としての執念を燃やした。港構築の功により明治21年藍綬褒章を受けている。
それ以外にも、氏は、明治10年私費を以て橋梁を架設し、その功に依りて銀杯を下賜せられ、明治17年皇城延焼の際、献金せしに依り木杯を下賜せられたることあり。実に氏の如きは、その一生を公共事業に徹したるものというべし。
昭和3年翁の銅像が建てられた
昭和3年昌栄橋北詰めに稲葉翁の銅像が建立されたが、単に港の入り口にあたるのでここだったのか?明治10年翁が造った橋梁が昌栄橋だったのか?分からない。
昭和32年頃の旧四日市港
やがて戦争による供出で像は撤去されたが、昭和31年、中央通りの国鉄四日市駅前に再建されることとなった。除幕式には、翁の祖孫で小学5年生の稲葉靖子さんが列席されている。