旧港あたり②
先日書いた出口對石画の“港頭の夕陽”に稲葉三右衛門さんの碑が立っているとあった。 2021年4月14日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp) 碑のことは、あまり気付かなかった。お天気も良かったので出かけてみることとした。 裏に 明治36年6月建 とある その横には、波止改築記念碑が立つ。 出来たばかりの四日市港(再掲載)四日市史(近代編)より...
View Article稲葉三右衛門翁の碑
稲葉三右衛門翁の銅像は、今もJR四日市駅前から港を望む形で立っている。四日市祭りの冒頭に開かれる商品祭を前に、先ず稲葉翁に献花式が行われ、お祭りが始まる。 銅像の後ろに次の文章が刻まれていた。 四日市の先覚者 三右衛門翁は天保8年岐阜県高須町に生まれ のちに中納屋家の稲葉家をついだ 早くから四日市港の不備を憂い 明治6年その修築に着手し あらゆる苦難に耐え 巨大な私財を投じ...
View Article関西橋南詰
四日市駅東に入り込んでいた関西堀(かんせいぼり)。現在の23号線(名四国道)のあたりに関西橋がかかっていました。橋の南詰に釣り道具屋さんがあったとコメントをいただきました。ありがとうございました。 関西橋...
View Article四日市駅周辺を散歩
大正11年の四日市駅東 昭和15年の国鉄四日市駅東 11年に国際振興大博覧会が開催されたその後です 東の海の色を省略させていただきました 昭和43年の高砂町 バーとか旅館が目に付きます 国鉄四日市駅東 現在は住友電装(旧 東海電線)が建っています 真ん中を名四国道が通っています 上を流れるのが阿瀬知川 右上の空き地が港中学校でした 昭和31年頃の空撮 1.阿瀬知川河口...
View Article四日市駅東側の移り変わり
四日市駅東側の移り変わりをマップにしました。(おさらい デス) 明治44年 大正11年 昭和15年 昨日の、下総人さんのコメントにもありましたが、阿瀬知川南の“出屋敷”という言葉が不思議でした。江戸時代の単語です。昭和になると消えていました。 追記・昭和15年の地図で...
View Article小津監督“彼岸花”の浪花千栄子2
朝ドラの「おちよやん」が佳境を迎えている。私は 誰かさんが涙を流して観ている間、小津安二郎監督の「彼岸花」を思い出している。 出されたお茶を飲んで 待つ 「あんた 人間ドック どうしたの?」 「へえ奥さん それどんねん まあ聞いとくれやす えらい事どすわ 手ェと足とに電線つないで 電気通したり なんや知らん 青いインクみたいの ここへ注射して それがなぁ奥さん そのインキ注射しましたらなあ...
View Article明治40年の四日市港
明治30年頃になると、稲葉甲太朗という人が登場する。三右衛門翁の息子か? 当時の四日市港全景 運送業 日本回船合資会社 資本金二万円 明治29年11月創立 自ら日本郵船会社の荷物を取り扱う 業務担当社員 稲葉甲太朗...
View Article稲葉三右衛門と四日市港
四日市港は江戸時代、天然の良港として熱田からの十里の渡し場があり、伊勢湾各地へ行きかう小舟や和船で賑わっていた。明治6年、黒川彦右衛門ら3名は、東京の日本郵船会社に出資を申し出て、東京と四日市間に汽船を運行させる。こうして港四日市は全国にその名を馳せるようになった。...
View Article稲葉三右衛門と四日市港②
四日市の生命は港にあり。而して四日市の港を、今日のごとくに改築したるものは実に、稲葉三右衛門氏となす。(明治40年発行“四日市志”より) 本町の水谷宣夫氏からお借りした“四日市志”は、明治40年2月、小学校の委嘱を受けて山崎清治、星野吉五郎、佐藤一海氏ら3名で編纂された貴重な書籍である。...
View Article丹羽文雄氏と鵜の森公園
連休の最後は雨になった。この辺りは連休中に田植えを終える。昭和期、小学校で習った田植えは6月。雨の中、田植えする絵が教科書にあった。それまでは菜種油を取る。4月は一面菜の花で真っ黄色、その中を遠足の行列が続く。辺り一面が菜の花の匂いでむせ返るようだった。...
View Article昌栄町あたりを行く
昭和3年 昌栄橋北詰めに 稲葉三右衛門氏の銅像が建つも 供出で撤去された 背景から察すると 西側に南向きに建てられた? 運河のある背景から ここに間違いない 昌栄橋の周辺を撮る 北を望むと 尾上町から高砂町、稲場町方面に道がのびる 先の信号を右折すると 千歳橋を渡って昭和11年開催の国産振興大博覧会会場になる 南 昌栄橋を見ると 四日市港の第2埋め立て地へとつながる 運河は西...
View Article旧四日市港あたり
東海道分権延べ絵図(訂正:東海道分間延絵図)より 阿瀬知川と十里の渡しの位置に自信がござんせん! 左上に燈台が描かれています。十里の渡しがあった場所でしょうか? 東海道五十三次にある橋は 昌栄橋(訂正:開栄橋)か?左に見えるのは十里の渡しか?謎が謎をを呼びます。しかしここにははっきりと三重川(三滝川)と書かれています?...
View Article広重“東海道53次”四日市宿
歌川広重は、実際に東海道を旅して浮世絵を描いたのではないらしい。43番目の宿場にあたる四日市は、追分で伊勢参宮との分かれ道になっていて、名が知られていた。隷書版の“参宮道日永村”の図 そして、行書版“参宮道追分”の図...
View Article昌栄橋は何時できた?
下総人さんの長年の疑問。昌栄橋は何時できたのか? その前に、明治末期の東海道筋にかかっていた四日市橋。橋を渡ると川原町です。明治期に入ってからというものの浮世絵の橋とは大違い。立派なもんです! さて昌栄橋ですが、明治44年には赤のマークで、予定になっています。 明治40年の“四日市史”の地図を見ると、阿瀬知川河口に砂浜が広がっていた様子が分かります。ジラシマス...
View Article三滝橋 今昔①
本日、暑いくらいの良い天気だったので、おかあんに断って、三滝橋へ出かけた。 昭和43年のマップ 国道1号線にかかる橋を四日市橋、旧東海道沿いにかかる橋を三滝橋と呼び分けている。 現在 大正13年 木橋だった三滝橋が頑丈な鉄橋にかけ替えられた当時の様子で、北町側から川原町側を撮影している。橋の手前には木橋の名残の杭がある。...
View Article三滝橋 今昔②
東海道分間延絵図の三滝橋の図です(江戸末期)。三滝川にかかった三滝橋は、浜一色村から四日市宿へ入る入口にあたりました。堤防に沿った坂になっていたと想像できます。坂を下りると四日市宿でした。 四日市宿は、東海道と浜往還が交差して成り立っていました。 明治44年の四日市宿。南町と竪町が交差したところが“札ノ辻”で、幕府のお知らせを掲げた高札が立っていました。辻の右下にあるのが陣屋跡です。...
View Articleエキサイト四日市・バザール開催の御礼
去る4月4・5日にエキサイト四日市・バザール2021が行われました。何をいまさらとお思いでしょうが、5月14日に反省会を兼ねた実行委員会が開かれました。出席委員の皆さんからは、一部コロナ禍の心配も聞かれましたが、全体としては十分な対策のもと開催できてよかったというのが結論でした。イベントに関わったみなさん、お越しいただいたみなさんに、実行委員長に代わりまして 心より御礼申し上げます。...
View Article昌栄橋は何時できた?完結編
“昌栄橋は何時できた?”で、明治44年から大正11年の間と推理しましたが、どうも緩すぎて後味が悪い思いを致しておりました。 2021年5月12日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp) そこで四大事業のことから調べなおしました。...
View Article昌栄橋は何時できた!解決編?
写真集“四日市の100年”椙山満監修 名古屋郷土出版 寛文年間の四日市地図があった。 この図から四日市湊は三滝川の川下にあったことがわかる。真ん中の“土橋”が“思案橋”、左上が“不動寺”とあるから、現在の本町は海の中だった。上の森が“諏訪神社”である。 この写真はごちゃごちゃとしているが、前回紹介した四日市の“第1期築港...
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