下総人さんの長年の疑問。昌栄橋は何時できたのか?
その前に、明治末期の東海道筋にかかっていた四日市橋。橋を渡ると川原町です。明治期に入ってからというものの浮世絵の橋とは大違い。立派なもんです!
さて昌栄橋ですが、明治44年には赤のマークで、予定になっています。
明治40年の“四日市史”の地図を見ると、阿瀬知川河口に砂浜が広がっていた様子が分かります。ジラシマス
ここの埋め立て予定地に、尾上町ができました。右下に建つ燈台が、十里の渡しの船着き場だった場所と想像できます。
明治40年、南起海岸(西末広町)の夕景 第1期埋め立て工事で消える直前の海岸線(目で見る四日市の100年より)砂浜があったのが分かります。
阿瀬知川の河口風景(末広町 明治末期)築港工事が進められている 向こうは南起海岸で、埋め立て1号地(末広町)となるところである。(目で見る四日市100年より)
そして大正11年の地図。尾上町から千歳町の埋め立てが終わっている。国産振興大博覧会に向け、準備は進む。
結論。昌栄橋ができたのは 明治44年から大正11年までの約10年間のどこかということになります。チョット ゆるかった でしょうか? ところで 灯台のに西に建つ 掖済会(えきさいかい)って何でしょうか? イカリのマークになっています