東海道分間延絵図の三滝橋の図です(江戸末期)。三滝川にかかった三滝橋は、浜一色村から四日市宿へ入る入口にあたりました。堤防に沿った坂になっていたと想像できます。坂を下りると四日市宿でした。
四日市宿は、東海道と浜往還が交差して成り立っていました。
明治44年の四日市宿。南町と竪町が交差したところが“札ノ辻”で、幕府のお知らせを掲げた高札が立っていました。辻の右下にあるのが陣屋跡です。
空襲後の空撮です。戦時中から国道1号線の拡幅工事が進められていました。四日市橋こそ出来ていませんが、東海道に並行して国道が造られつつある様子が見られます。
水谷百碩画による“三滝川夕涼”(四日市十二景より 四日市市立博物館)
百碩の題名一覧には「旧三滝川夕涼」とある。題名に旧と付くのは、明治以前のという意味のようです。三滝川にかかる東海道の橋が三滝橋です。長さ52間(95メートル)もありました。橋の上と河原には屋台が並び、人々が夕涼みを楽しんでいる様子が描かれています。髪型に注目すると、髪を結っているのがわかります。後に屋台に代わって牡蠣船が出されたのでしょう。憩いの場でした。
本町の水谷氏からお借りした雪の日の牡蠣船の立体写真です。目線を寄せて二枚の絵が重なるようにすると、立体的に見えます。
“知られざる四日市の面影”(四日市市立博物館)出口對石画 泗水十二景より“三滝の霽月(せいげつ)”
雨上がりの三滝川の風景を、西に傾く月と共に描いています。河原には屋形船のようなものが描かれていますが、これは料亭の牡蠣船と思われます。百碩の屋台を出した河原に、店を置いたものと思われます。木造橋の三滝橋としては最後の姿で、大正12年以前の風景を描いたと思われます。のどかな昔日がしのばれます。