先日“商工春秋”10月号が届きました。
今月は水谷百碩画伯(1868〜1928)の“旧四日市浜之景”です。
明治初年頃の四日市湊を描いています。手前の松林の中には瓦葺の高い建物が描かれています。
これは灯明台(灯台)で、天保時代に建てられました。その左に宮(熱田)と十里の渡し場があり、旅人はここで船に乗り降りしました。
この場所が、のちに四日市港(稲葉町・高砂町)になります。
同じ構図の絵が、稲葉三右衛門の子孫の稲葉家にも残されています。
とすると、灯台の向こうに見える川は阿瀬知川でしょうか?のどかな風景が広がっています。
明治四十四年の地図には、既に稲葉町・高砂町・尾上町が埋め立てられていて、その下(東)に四日市港が築かれています。
国鉄四日市駅から港に至る地域は、道路が細かく入り組んでいて 蔵町・中納屋・南納屋あたりの繁栄ぶりが偲ばれます。
今月は水谷百碩画伯(1868〜1928)の“旧四日市浜之景”です。
明治初年頃の四日市湊を描いています。手前の松林の中には瓦葺の高い建物が描かれています。
これは灯明台(灯台)で、天保時代に建てられました。その左に宮(熱田)と十里の渡し場があり、旅人はここで船に乗り降りしました。
この場所が、のちに四日市港(稲葉町・高砂町)になります。
同じ構図の絵が、稲葉三右衛門の子孫の稲葉家にも残されています。
とすると、灯台の向こうに見える川は阿瀬知川でしょうか?のどかな風景が広がっています。
明治四十四年の地図には、既に稲葉町・高砂町・尾上町が埋め立てられていて、その下(東)に四日市港が築かれています。
国鉄四日市駅から港に至る地域は、道路が細かく入り組んでいて 蔵町・中納屋・南納屋あたりの繁栄ぶりが偲ばれます。