前回、高砂町が伊勢暴動で焼き討ちにあったことを描いた。
2021年4月21日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)
明治6年7月、江戸幕府から明治政府に代わり、地租改正条例(固定資産税)が公布され、地価の3%を地租として金納が規定された。ところが明治9年12月18日、石代納(米の取れ高価格による納税)になった度会郡では、折からの米価の下落により不満が勃発、警官との小競り合いから松坂町内でのうちこわしに至った。愛知、岐阜、三重でも計916件の反対一揆が起きている。
松坂町から南部へ波及した一揆は、県に要求を出すことで収まったが、北へ向かった一揆勢は、津の県庁攻撃に失敗した後、官吏社宅等の焼き討ちにかかった。そして、地租改正関係書類をはじめとする諸公文書の徹底した破棄を目的とする明治政府への反対一揆として展開する。
四日市へは四方向から押し寄せた。19日の深夜、関宿を破壊した一揆勢は東海道を東進し、亀山・石薬師を経て20日午前6時頃には釆女村に入った。その後、日永を通過して7時頃、四日市へと進んだ。
別の一隊は鈴鹿の下大久保村から、南小松、鹿間、和無田村の村民を動員しつつ20日6時頃に三重郡に入り、山田村で二手に分かれる。一隊は八王子村の巡査屯所に放火、室山村を経て日永村で東海道を進む一揆勢と合流、四日市へ入った。
一方、山田村から北へ転じた一隊は8時頃、佐倉村民を動員して菰野へと向かった。
水沢村には鈴鹿郡大久保村から20日午前6時頃に一揆勢が入ってきたが、水沢村民の一部はそのまま大久保村へと戻った。
また、鈴鹿神戸方面からの一揆勢は午前7時頃、河原田村に入りそこから四日市へと北進した。
稲葉三右衛門の“暴動日記”に記録が残っている。四日市市内の毀焼(きしょう)状況は、最初に電信局が放火、8時には扱所が打ち壊され、10時頃には1万人に膨れ上がった一揆勢は三重県四日市支庁を、11時には南町郵便会所を放火した。そして、午後になって桑名方面へ進んでいくが、入れ替わり入ってきた別の一揆勢により、夜になって、高砂町の県官太田信義の借宅が放火された。他の家への無差別な放火も重なって近隣に類焼したため、高砂町で58軒の類焼被害が出た。さらに築港所、海運會社にも放火したため、住民たちとの間で衝突が起きた。
四日市から北へ向かった先遺隊は、羽津から大矢知へと破壊放火を続け、10時には懲役場へ殺到した。(懲役場?罪人や貧しい人の為の職業訓練所みたいなものだろうか?)懲役場が放火されたため150名の収監人は裏山へと非難した。一揆勢は、囚人らに随行を強要、釈放された者の内50名が合流した。この中に、唯一死刑に処せられた大塚源吉も含まれていた。そのあと桑名から愛知、岐阜へと向かった。
21日、菰野方面で再発した一揆は、下海老、坂部、野田を通って末永村まで進み、沿道の役職人宅を次々に攻撃した。
これら暴動に対し、21日午前7時富田に上陸した名古屋鎮台兵200名は、午後3時四日市の自警団と共に野田村で攻撃、散乱させた。23日には東京警視庁の警官隊230人も到着し鎮圧にあたった。(四日市史 通史編 近代より)
新しい明治政府への不満が暴発した農民暴動だった。それにしても結構、賛同した地元住民が加わっているものである。