諏訪新道は何時出来た?
資金面で苦労する県の一号埋立地工事に対して、市としても負担を躊躇していられないということで、大正10年“港道開墾工事”に取り掛かる。 計画は、四日市駅から諏訪新道に接続する形で相生橋に至る道路の新設。更に高砂町から尾上町、昌栄橋に至る県道四日市港線が道路幅12間半で始まった。この年は、名古屋港が四日市を貿易額で追い越した年でもある。...
View Article諏訪新道は何時出来た?推理編
四日市駅~相生橋と尾上町の拡幅工事を行った12間道路は、大正14年に完成した。下図は明治44年のもの。相生橋までは未整備である。 この時、諏訪神社から沖ノ島を通る道路は直線であるが道幅は狭かった。大正14年の道路整備には対象外だった。 戦前の写真である。この時は明らかに諏訪新道の道幅は狭い。 空襲直後の写真を見ても、四日市駅に比べて狭そうだ。...
View Article千歳運河と臨港橋
明治43年、四日市駅から港にかけての四大工事が竣工し、引き続き昭和5年にかけて港の第1期修築工事にかかった。県の事業として進められたが大正3年国庫補助金を受けることになり1号埋立地(末広町)は大正5年に完成する。 昭和15年...
View Article保永堂版 東海道五十三次 より四日市
歌川広重“東海道五十三次 四日市 謎解き浮世絵叢書 佐々木守俊 解説”二玄社刊 より 副題に三重川(三滝川)とあり、帆柱が立っていることから、描かれた地は三重川の河口付近と特定されます。舞台はどこにでもある葦の生い茂る川のほとり、平凡な風景を鑑賞に堪える図とするために、広重はどんな工夫を凝らしているのでしょうか?...
View Article今昔写真帖より2枚の写真
昭和10年の臨港橋 四日市市末広町。手前は臨港橋、奥の跳上橋は臨港鉄道のもので共に昭和6年頃架設された。鉄道橋は平成10年12月25日に「四日市港の発展過程を示す遺構であり、陸上輸送と運河輸送とは拮抗していた時代状況を物語る典型的な土木建造物」として歴史的な価値が認められ、国の重要文化財に指定された。(臨港橋の南から北に向かい撮影)(椙山満氏提供) 大正11年の諏訪新道。...
View Article好奇心満載!ぐるぐる博物館
三浦しおんさんの“舟を編む”を読む。じつはDVDがよかったので、本棚の隅でほこりをかぶっていたのを引っ張り出して最終まで再読した。当時なぜ頓挫したのか分からなかったが、面白かった(得した気分)。...
View Article慈善橋は何故出来た?
四日市を二分するように流れる三滝川。明治期まではこの川を渡る橋は三滝橋と明治橋のみがたよりだった。このため浜街道つまり中町通り・浜町蔵町通り(当時の浜往還)を往来する人々は東海道の通る三滝橋から約300メートルほど川下に僅かに歩行できる幅の板を架け、橋北との交通手段にしていた。 明治44年...
View Article市立商業学校 があった
世界史の林先生曰く、この銀杏の木の大きな傷跡は、商業学校を工場と間違えて爆撃したのではないか?ということであった。昭和20年空襲の夜、焼夷弾の雨が天聖院の屋根に降り注いだ。 天聖院の東に隣接して商業学校があった...
View Article伊勢暴動 四日市を襲う!
前回、高砂町が伊勢暴動で焼き討ちにあったことを描いた。 2021年4月21日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)...
View Article阿瀬知排水場
1日のブログで、阿瀬知川河口の様子を見て、心もとない気がしたが、 2021年6月1日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp) 昨日は自転車に乗って、23号線の西側から様子を見た。住友電装側、23号線沿いに“阿瀬知配水場”(訂正:排水場)の入り口があった。トラックが止まって何か作業をしている。 西側へ回る。...
View Articleさまよえる稲葉三右衛門翁
阿瀬知川河口の昌栄橋(大正5年)。昌栄橋橋詰に稲葉三右衛門翁の銅像が立ったのは昭和3年。 2021年5月4日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp) ということは?で、つくってみた。 2021年5月18日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp) この像は戦争の供出で取り壊され、中央通り、国鉄四日市駅前に新しく出来たのは昭和31年でありました。
View Article四日市の海水浴場
海水浴がレジャーとして庶民に普及したのは20世紀も後半になってのことだった。それまでは、塩湯浴み(しおゆあみ)などと呼ばれ、健康や療養のため海水に浸かる程度だった。 橋の向こうが昌栄新田...
View Article富田浜海水浴場
明治40年7月に関西鉄道が臨時停車した富田浦(後に富田浜と改名)駅。昭和8年頃には、霞ケ浦土地㈱が、リゾート地として開発をいたしておりました。関西線が走ります。名物はハマグリです。 昭和8年 昭和8年のガイドマップ。(図の下)垂坂の北側ではマツタケが獲れたんですね。 入り口を入って、土産物屋を抜けると、右側にそびえる大滝。 中央に聖武天皇の旧跡?と右には千人風呂が望めます。 聖武天皇旧跡?...
View Article富田駅長推薦の蛤料理
昭和8年11月15日 富田驛の驛長さんが蛤のパンフレットを作った。おそらく海水浴場入り口のお土産屋でも配布されており、お土産用に蛤が販売されていたと想像される。霞洋館や三藤旅館の料理も蛤尽くしであったのだろう。作られたのは昭和8年。大正時代の好況から、昭和7年には5.15事件が起き、8年は日本が国際連盟を脱退した、なんとなく不穏な空気が迫ってくるような年でした。※...
View Article富田浜の今 ①
富田浜へ出かけた。 JR富田浜駅は、無人の静かな駅だった。 プラットホームから富田方向を見る。 駅前の狭い通りに当時土産物店が並んでいた。 この道をまっすぐ進んで、通りが終わるころ、左に現在でも“三藤”というビジネス旅館があった。“三藤旅館”跡に違いない。左に路地を折れて北へ向かう。...
View Article富田浜の今 ②
遠浅の海水浴場だった富田浜町は別荘地として発展してきた。上皇后美智子様(日清製粉グループ本社)正田家の別荘や名古屋の財界人が使用する別荘地にもなっていた。有料の海水浴場もあり、夏休み期間になると、富田浜駅のホームは名古屋駅や四日市駅からの海水浴客で混雑した。ウィキペディアより...
View Article四日市港ポートビル探訪
富田浜海岸の東にある霞埠頭には、平成11年に完成した“ポートビル”がそびえている。往年の富田浜海岸を一望するために立ち寄った。 四日市港開港100周年を記念してできた。四日市港管理組合や港関係の会社事務所になっている 埋立地の霞ケ浦埠頭へ入るには、霞大橋を渡らねばなりません。ここでは例年花火大会が開かれています(コロナ禍で2年続きの中止ですが)。 左が霞大橋 大型トラックが行きかう...
View Article戦時下に向かう海水浴場
大正から昭和初期は大正ロマンともいうべきホノボノとした時代で。恐慌期といえども行事を楽しみにして、祭礼・映画・演芸・音楽会は云うに及ばず、夏の海水浴などは最も手軽に安価で楽しみながら体力もつけられるので人気があった。 須賀浦海水浴場...
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