四日市学講座“なぜ都市計画は四日市公害に力(訂正:無力)だったか”の後半です。
元熊本県立大学教授 坪原紳二氏は「環境にやさしいまちづくりと民主主義」で、オランダのフローニンゲン市を例に挙げ、現在の環境にやさしい都市づくりが、民主主義に基づいて作られたものか?を述べています。
1970年代、政権を担った若者層を中心とした労働党は、反対の意見を押し切り僅差で、街に入る車をストップさせました(交通循環計画)。続いて、公園内を通る車道を迂回させ、これも激論の末、一方通行にすることで条例を通すことに成功しています。実施後の結果は、反対意見はあまり聞かれず、快適な環境を満喫する市民の姿が多く見られたことでした。反対を押し切ったことは民主主義に反しているようです。
日本だったらちゃんとシュミレーションをやって社会実験をやって、それで結局実施しない。というふうになりがちです。それに対しフローニンゲン市の『交通循環計画』の導入方法などは、ほとんど学生の実習の乗りです。市職員が教会から時折出てきて、計画した一方通行が実施可能かを自転車で確かめに行くのを、主婦がからかっている、という記事がありました。
四日市は昭和25年から35年頃にかけそうそうたる外部の研究者、計画家が、都市開発、都市改造のための計画を提案してきました。昭和30年には『四日市市総合都市計画』、昭和35年に『四日市総合開発計画』、昭和41年『都市改造マスタープラン』、昭和43年『公害研究委員会研究報告書』とこのように様々な計画が提案されてきたにもかかわらず「都市改造」すなわち住宅地と工業地帯の分離は、結局ほとんど実現しませんでした。
昭和39年9月15日 諏訪百貨店屋上ビアガーデンにて 辻 俊文氏提供
四日市では、これほど多くの提案が、これほど優秀な計画家たちによって提起されているにも関わらず、それらが市議会の場で全くと言ってよいほど議論されなかった、という事実です。つまり四日市の「都市改造」は外部の計画家の話題にはなりましたが、四日市の政治の議題には全く上がらなかったわけです。
過去、九鬼市長も『都市改造マスタープラン』から距離を置いたことに対して、このように述べています『一ぺんも民意を聞くこともなく、ああいう、中央でああいうようなマスタープランを委託して作るということについては、そのあり方に反省しとる』・・・と