富田浜海岸と四日市学 ②
四日市学講座“なぜ都市計画は四日市公害に力(訂正:無力)だったか”の後半です。 元熊本県立大学教授 坪原紳二氏は「環境にやさしいまちづくりと民主主義」で、オランダのフローニンゲン市を例に挙げ、現在の環境にやさしい都市づくりが、民主主義に基づいて作られたものか?を述べています。...
View Article垂坂山 古戦場 ①
富田浜から北西方向に垂坂山がある。(訂正:富田浜海水浴場の観光マップに描かれているように、霞ケ浦から見て垂坂山はほぼ真西に位置しています)“雀頭垂坂山春景”水谷百碩画 四日市市立博物館刊「知られざる四日市の面影」より...
View Article垂坂山 古戦場 ②
合成写真でございます 現在の垂坂山の山頂は、昔の面影はなく、木々が生い茂り下界を見渡すことはできない。坂道を上り詰めた南側に墓碑が立っていた。 垂坂山古戦場の史跡 一、北畠系譜によると南北朝の頃、文中元年(1372年)北畠の重臣大宮親子入道が二千騎を率いて同山に陣取った。 一方、足利派の伊賀、伊勢の守護仁木義長...
View Article徘徊する天武天皇
富田浜海岸(ガイドマップの上、中央)に『聖武天皇御旧跡』とあり、 シャワーの上にも聖武天皇が立っていた。 そして、垂坂山の山頂にも『天武天皇神宮御遥拝所』の碑が立っていた写真がある。 富田の思い出の写真より“垂坂山” 出かけたときは、残念ながら見つけることができなかった。 Webで調べると大矢知にあった。後ろに小高い山はあるが、なんでもない場所である。ただここの地名が“斎宮”と訳有り地名である。...
View Article徘徊する聖武天皇
さて、手抜き工事で聖武天皇について調べさせていただきました。 聖武天皇(しょうむてんのう)は、日本の第45代天皇(在位:724年-―749年。文武天皇の第一皇子として生まれ、24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。...
View Article徘徊の謎は解けるのか?
前田憲司先生の登場でございます。前田さんにお聞きしたところ「詳しく存じず、スミマセン」ということでしたが、きちんとお答えをいただきました(実はこの人、詳しいんです)。 天武天皇の迹太川遥拝の碑ですか?遠保神社(「とお」と読むつながり)で、そのあたりを流れる川の上流ということで、垂坂を遥拝所とする説があったんですよね?それで建てたけど、迹太川が特定されなくなった。...
View Article聖武天皇大混乱!
本日、大発見があった。本町の水谷宣夫氏が富田浜海水浴場の俯瞰図をお持ちだった。写真集“四日市の100年”ではモノクロであり明確ではなかったが、これは本物であった。 付近名所旧跡 垂坂山御野立所跡 垂坂山は霞ケ浦西方約十町 眺望絶佳にして杖を曳く遊客四時絶えず 殊に四日市の咽喉を扼し 軍事上亦枢要の地点なれば明治43年陸軍大演習の砌(みぎり)今上陛下駕(駕=のりもののこと)をこの地にとどめられ...
View Article発見!垂坂山遥拝の碑
久留倍官衛遺跡公園(くるべかんが いせきこうえん)へ出かけた。富田駅を過ぎて四日市高校沿いの道を大矢知方面へ上る。あさけプラザを過ぎると北勢バイパスの高架がある。高架の手前を左へ折れて道沿いに行く、バイパスに乗らずに左へ入ると駐車所場が広がっていた。北勢バイパスを造っている途中でこの遺構が見つかり、迂回させて保存された。...
View Article古代史ミステリー
コメントをいただきました。感謝!ご紹介します。 パンフレットの垂坂山(御祓岡)の碑は説明書き通り大正天皇が皇太子時代に陸軍の演習の際、垂坂山を訪れたことを記念して大正時代に建てられた碑です。倒壊の恐れがある為、十年ほど前に撤去されました。碑の文字は「今上天皇御駐蹕處」で形も円柱砲弾状で富田ホームページの垂坂山の写真とは一致しません。...
View Article壬申の乱とくるべ遺跡
壬申の乱に関しては、皆様よくご存じと思います。首謀者は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)でなく別に黒幕がいたという説もあります。ロマンです。...
View Articleゴジラ接近!
下総人さんから“歴史を歪曲すべからず”のお叱りがあった。稲葉三右衛門さんが怒ってみえるということだ。それではワニと白ウサギも登場させようかと思ったら。どうやら諸説ありワニかサメか?というあたりで判断が付かなくなったので、大国主命さんにご登場いただいた。この方も、不幸の末に神さんに祭りたてられたそうな。...
View Article昌栄新田の海水浴場
旧四日市港の南の昌栄新田もまた、古くから海水浴場として賑わっていたようだ。水谷宣夫様からお借りした“四日市志 名所案内付”明治40年5月発行(南町 伊藤善太郎氏著) 明治40年 昌栄新田の砂浜は埋立予定地である 掖済会前は砂地が広がっていたのがわかる 午起は加藤新田で海水浴場となる以前のようです...
View Article椙山先生の午起海岸
大正2年に午起を整備 椙山 満 「四日市市史研究 第4号」四日市市発行より 大正橋から川口まで500メートル程ある三滝川北岸堤防の途中からは、うっ蒼とした松原が翠の陰をおとし、川口で北へ曲がって海辺に沿って更に百メートルも続いていた。この辺りは波打ち際まで石積みになっていて、昭和10年頃から小学生の海浜学校が開設されていた。 大正11年...
View Article午起海岸点描
「知られざる 四日市の面影」四日市市立博物館刊より 四日市十二景 水谷百碩画 “午起之綱引” 現在、第二コンビナートが立ち並ぶ午起は、昭和30年頃までは海水浴場として親しまれていました。この絵は漁師が地引網をしているところで、画面右上には白い灯台と稲場町から伸びる四日市の防波堤が描かれています。網を引く人の外に、手に網を持った赤ちゃんを背負った女性や子供の姿が見えます。 泗水十二景 出口對石画...
View Article椙山先生の霞ケ浦海岸
霞ケ浦遊楽園も登場 椙山 満著(四日市市史研究 第4号”より) 堀切川を境に北側の小松原は、大正12年から開発された高級住宅地。いわゆる霞ケ浦の別荘地帯(現在の競輪場の北)。その隣が有名な霞ケ浦遊楽園という海水浴場(ここは有料)だった。 夏の日を好めるさがとなりにけり かすみが浦を知りそめしより (楚歌)...
View Article午起駅跡を行く
三岐鉄道のみ停車する午起停留場跡はどうなっているのか? 平成29年の樹林舎さんの写真 そして今日の写真① 昭和13年 少し北の踏切から撮った。①列車が通過する ① ① 三滝川北の四日市東洋紡績跡は現在 三滝公園でテニス場がある。② ② 午起バス停前③ 右奥に堤防の跡が残っていて 東には中部電料火力発電者が建つ 面影はまったく無くなってしまっている ③...
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