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Channel: 花の四日市スワマエ商店街
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戦時下の四日市海水浴場

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昭和12年にはじまった日中戦争後、年を追って戦争体制が強化され、夏の海水浴については、国民の体力づくりが重視されるようになり、それまでの保養・娯楽やスポーツという精神は没却されてしまった。そのため身体の鍛錬に重きを置き、戦闘のための訓練になっていった。富田・富洲原の海岸は遠浅の白砂青松の景勝地の海水浴場として知られていたが、昭和になると、霞ケ浦、富田浜の北方の松ヶ浦(富田一色)・須賀浦海岸にも新しい海水浴場を開設して、県内外の一般人はもとより、児童・生徒の水泳訓練や海浜学校の受け入れを図った。

皇居遥拝で始まる一日(四日市市午起海岸・昭和12年)

保養所の朝は、職員、生徒ともにこの深々とした礼拝をすることから始まり、朝礼、軽い体操と続いた。(目で見る四日市の100年より)

昭和37年の松ヶ浦・須賀浦海水浴場調査報告書によってもこのころすでに相当な施設が整備され、盛況であったことが分かる。このように富洲原地区の発展に合わせて、海水浴場の管理運営の中核として、四日市富洲原保勝会を作っている。富洲原保勝会では昭和39年と40年の二回にわたって富洲原地区に簡易保険無料健康相談所の開設を請願、設置されている。また、須賀浦海水浴場にラジオ体操を行う際のラジオ受信機貸与申請書も出し、市民の健康増進のために活動している。県内の学校のみならず名古屋や関西方面の学校が必須科目の水泳訓練として、遠泳や海浜(林間)学校を取り入れていた。 四日市史より 

午起海岸の起工式場(四日市市午起・昭和18年5月)

海水浴場石段脇で浦賀ドック四日市造船所の起工式が行われた。ここでは主に木造船を製造していたので、空襲の際には、火だるまになった船の形が、まるで仕掛花火のように見えたという。(目で見る四日市の100年より)

戦時体制下へと組み込まれていく海水浴場。つまらない時代になっていったと想像できます。


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