人気を呼んだ富田浜 椙山 満
四日市市史研究 第14号より“人気を呼んだ富田浜 椙山 満” 省線富田浜駅からまっすぐ海に出ると、ここが富田浜海水浴場。ここも水のきれいな白砂の海岸で、隣の霞ケ浦に負けじとこしらえた人口の岩山から大瀧が落下していて、海水浴後の水浴びに大人気を博していた。...
View Article須賀浦海水浴場 椙山 満
民宿もあった須賀浦の海 椙山 満 平次郎橋や海運橋をくぐってきた運河(堀川)が海に注ぐ川口に構える富洲原港。それから北にはまた翠(みどり)深き磯馴松という松原と遠浅の白砂の美しい海岸が延々とつづく。この天カ須賀の海岸は須賀浦と呼ばれる海水浴場で、上水道の噴水塔、貸舟、貸ボート、売店、無料休憩所など軒を並べ、遠浅で女子供にも安全で、愛知県下の小中学生の宿泊団体までやって来て夏中賑わっていた。...
View Article郷愁の午起停留場
昭和13年のマップに午起驛がある 三岐鉄道は昭和27年12月から30年(訂正:昭和39年)10月まで、国鉄関西本線 富田~四日市間の直通乗り入れ運転を行い、富田浜~四日市間に三岐鉄道の列車のみ停車する三岐鉄道午起停留場を開設した。(四日市市の今昔 樹林者刊より) 右、午起海岸...
View Article残された最後の海岸
礒津の内部川河口から吉崎海岸を回ってみた。今の季節、礒津の海岸はすっかり草でおおわれていた。 吉崎海岸は、ウミガメの産卵場所として有名である。砂州を探し求めてやってきた動植物が、猫の額ほどの砂浜に生息地を見出している。産業振興の結果、四日市ぜんそくに象徴されるように、その分だけ自然や生活が破壊されてきたのである。 大正2年〜8年頃の吉崎海岸...
View Article聖武天皇社
松原町北ジャスコの西側にある“聖武天皇社”に寄った。毎年7月16日は松原の大祭(松原石取祭)が行われており、幟も残ったままの後片付けの日に伺った。 「続日本紀」によると、天平12年(740)の藤原広嗣の乱の際、聖武天皇は伊勢に行幸した。この時に朝明郡衙(朝明郡の役所)に泊まったという。 境内に建つ聖武天皇の万葉集にもある歌碑(佐々木信綱...
View Article国民禮法
『国民禮法 初等科五學年』という古い本をお客様から頂戴した。 40ページの薄い本である。昭和17年3月10日発行。菊のご紋章の扱い方をはじめ、近所付き合いや公衆衛生の心得等、戦時下におけるエチケットやマナーなどを5年生児童に向かって“こうしなさい!”調で書いてある。“第八 貯蓄報国”の項にこうあった。...
View Article“張込み”シークエンス ①
暑い夏が来た。夏といえば、松竹作品、松本清張原作、野村芳太郎監督、脚本 橋本忍、助監督に山田洋次が起用された『張込み』だ。何度観たかもしれない。幾度このブログに書いたかもしれない。西村雄一郎氏が“清張映画にかけた男たち”で紹介している。 松竹のマークが終わると、そこは横浜駅だ。 プラットホームに止まった列車の壁面に掲げられた行先の表示板には「鹿児島行」と書かれている。...
View Article“張込み”シークエンス ②
木曽川を渡る電気機関車 東京―神戸間は、撮影の前年(昭和31年)に電化されたばかりだった。だから東海道線はディーゼル(上総人様のご指摘によると、この時すでに電化されており、パンタグラフを上げて走る列車はEF58型電気機関車と推定される) だが、山陽本線はまだ蒸気機関車が走っていた。電気機関車からSL・C59187型に乗り継ぎ(牽引車が変わった?)、二人の刑事が九州へ下る旅の描写が快調に続く。...
View Article”張込み”シークエンス ③
C59187は、瀬戸内沿いに走る。一昔前には、こんなものが全国を走り回っていたと思うと、感無量である。 朕が 学生時代を終えて、上松へSLをカメラに収めようと出かけたことがある。早朝、トンネル出口に向かってカメラを構えていると、なんと出てきたのはディーゼル機関車。思わず 機関手と目が合う。体裁が悪いのでせっせとカメラのシャッターをきった。...
View Article”張込み”シークエンス 最終回
小郡駅で、山口に向かう他の刑事たちと分かれるカットは、佐賀ロケ(本編)が終了して、役者以外のロケ隊一行が大船撮影所へ帰る際、途中下車して撮影されたものである。 関門海峡をくぐる列車 博多駅のシーンは別撮りである。刑事役の大木と宮口は、このシーンを撮るため、わざわざ博多駅まで出向いている。...
View Article壬申の乱とくるべ遺跡 ②
2021年6月27日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp) の続編でゴザイマス。 先日、ようやく久留倍官衙遺跡(くるべかんがいせき)へ出かけた。 くるべ官衙遺跡 壬申の乱の足跡と、後年、その跡をたどった聖武天皇行幸路が、1枚のパネルに表してある図を撮る為だった。黒が挙兵した大海人皇子の行軍図。オレンジが足跡をたどった聖武天皇の行幸図である。...
View Article萬葉集とくるべ官衙遺跡
本日の中日新聞より 前回訪れた時、公園には“万葉植物エリア”の表示がありました。 幕で囲い、天皇を中心に歌が詠まれました。 植物には関係ありませんが、松原町の聖武天皇社境内に建つ萬葉集の歌碑(佐々木信綱...
View Article”張込み”シークエンス C59編
木曽川を渡る電気機関車。早くて車種はよく分からん! 映画”張込み”の冒頭を飾るのは、C59蒸気機関車だ。Web“遠い汽笛” では美しいイラストが楽しめます。 C59形 蒸気機関車 (kitekinet.jp) 外から撮っているので、すべて車番が異なるのは当然ですが、造られた時によって1台1台番号が違うということを知りました。 瀬戸内海をひた走るC59・・・ 小郡ではC59187です。...
View Article練りの上に乗るのは なぜ稚児なのか?
コロナ禍の中、秋の四日市祭りを“やる!”“やらない!”で、実行委員会は侃々諤々(かんかんがくがく)でゴザイマス。一方、このところ私、古代史に興味が出て、と言っても名前は難しいし、天皇家はくんずほぐれつですし、挑戦する読書はいつもとん挫状態ですが、関 裕二著の「古代謎解き紀行」を読んで、へーッと思いました。...
View Article掖済会前海水浴場 ②
昨日は、“男の囲炉裏端の会”に参加させていただいた。と申しましても、参加は男性に限らない。“男の・・・”は省略しては?とも思っておりますが、余計なことです。とまれ、楽しい(自分だけ)時間を頂戴しました。感謝! ところで出席のKさんから、会場だった納屋プラザ内に貴重な写真があると教えていただきました。 旧四日市港北にあった、掖済会前海水浴場の空撮です。...
View Article大正ペスト騒動①
大正ペスト騒動 椙山 満 四日市市史研究 第5号より 椙山先生は、当時の写真を多く持ってみえたようだ。これは、産婦人科医であったためだろうか。 大正5年10月8日、四日市浜町の東洋紡績の沖仲士(船から港への運搬従事者)の長女(5才)と長男(11才)は、いずれも耳下腺炎で急死した。警察医...
View Article大正ペスト騒動②
大正5年12月、必死の防疫が効を奏し、その月の感染者は6名にとどまった。終息を迎えた安堵の気持ちと再発防止を祈念して、12月27日、諏訪神社で終息報告会、諏訪公園では祝賀会を開いて大正6年の新年を迎えた。 海蔵村で、網を使っての捕鼠隊の活躍...
View Article椙山満氏の四日市湊物語①
椙山満先生は、毎回“四日市市史研究”に、興味深い投稿をされていた。もし御存命であれば、いろいろお話をお聞きしたかった。さて、今回は「四日市みなとについて」であります。 寛文年間(1661~1673)の、四日市湊の地図である。鴨長明(1155~1216)の伊勢記にこうある。...
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