柳通を真っ直ぐ港方向へ進むと、23号線の手前に“思案橋”がある。橋というよりも橋らしき形が柳通りを挟んで造ってある。
此処は昔は築地と呼ばれて新丁不動松原にある四日市湊への入り口をなし、東の州浜へ長さ十四間の土橋が架かって下を漁船が往来していた。
前回、位置が間違っていた。ここになる
天正10年6月、本能寺の変を聞くや泉州堺に滞在中の徳川家康は急遽京都を避け、伊賀路を経て当地に至り、黄昏の土橋に立ち、行先不穏な陸路を行くか海路を選ぶか深く憂い思案に暮れた。その時地元の者船を仕立て、夕方密かに陸を離れたが、ほどなく怪しい怪鳥の羽音あり、後より迫る追手の如く聞こえ、不安な夜の渡海ではあったが無事尾州知多郡常滑渡り恙(つつが)無く浜松に帰城したと伝えられる。
橋の名はその後“勧進橋”、郡山私領時代には思案橋と呼ばれ、明治26年長さ三間余りの石橋に改められたが、昭和20年戦火をくぐり小破し、古柳の大樹も焼失、同28年運河並びに水門の埋め立てと柳通りの拡幅工事の際、惜しくも廃止された。
空襲直後の思案橋 天保の地図と比較すると、道の曲がり(赤丸の部分)から思案橋の位置が確認できる
今日ここに 市当局をはじめ 地区内外の企業並びに有志の方々のご尽力により 郷土四日市と共に生きたこの橋の数百年の歴史を 柳と共に蘇らせる願いがかなえられた 昭和61年5月吉日 港地区連合自治会
思案橋横に立っていた柳の巨木。柳通りの名前のいわれだと気づいた。