四日市湊物語 阿瀬知川をたどる
前回の文章を再掲載させていただく。 四日市の西方、常盤村あたりに源を発し、(現在四日市市立病院の建つ)芝田を流れ、やがて東海道は中浜田の東禅寺で北に折れ・・・ 東禅寺裏手に現在も流れる阿瀬知川支流 江田町(えんだちょう)で久保田や堀木あたりから流れてきた支流と合流して東進・・・ 湯の山街道が三滝川堤防に登る境、車の往来を横目に窪田神社がひっそりと建つ。 三滝川「石垣井堰」からの取水口...
View Article四日市湊物語②龍灯松
椙山先生の叙情あふれる文章を御味わい下さい。 水谷百碩画“竜灯之松不動寺の晩鐘”竜頭の松は、不動寺境内にあった大きな松です。その高さから、湊に出入りする船の目印となり、いつしか竜灯の松と呼ばれるようになりました。枝の沢山の添え木が老木の風格を感じさせます。不動寺の晩鐘は、四日市の名所として近江八景にならったものです。...
View Article四日市湊物語③浜往還の先に
寛文時代の終わりころ(1670年頃)から新丁や築地(子畑方)・丸池・納屋新田・浜新田(1699年)などが次々と埋め立てられて、1600年代の末 つまり元禄時代に湊は納屋地の東の海岸(今の蔵町開栄橋西詰)に移り、西町からの札の辻(東海道との交差点で陣屋の高札場があったのでこう呼ばれた)を通ってここまでくる浜往還という道も整備されて、ここに二代目四日市湊の時代を迎えることになる。 享保時代...
View Article四日市湊物語④思案橋
柳通を真っ直ぐ港方向へ進むと、23号線の手前に“思案橋”がある。橋というよりも橋らしき形が柳通りを挟んで造ってある。 此処は昔は築地と呼ばれて新丁不動松原にある四日市湊への入り口をなし、東の州浜へ長さ十四間の土橋が架かって下を漁船が往来していた。 前回、位置が間違っていた。ここになる...
View Article四日市湊物語⑤浜往還一本松
まず、椙山 満先生に、一礼! 幕政時代四日市湊燈台付近の景。四日市市中部 多気直三氏(明治28~昭和41)が、昭和15年頃、吉田勝太郎市長に寄贈せしもので、2代目の湊と浜往還一本松が彩色で描かれている。...
View Articleくるべ官衙遺跡と万葉集
天智天皇が逝去すると、吉野に篭っていた弟の大海人皇子(天武天皇)が、息子の大友皇子に対して兵をあげた(壬申の乱)。皇位を争う戦だったが、その裏には額田王(ぬかだのきみ)をめぐる三角関係という説もある(教科書にも載っていて有名)。 あかねさす 紫野草(むらさきの)行(ゆ)き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖ふる...
View Article眠れないほどおもしろい 万葉集
663年(ちなみに 壬申の乱は672年)百済に出兵した白村江の戦いで日本軍は、けちょんけちょんに大敗した。おかげで新羅や唐からの防衛のため、国民に北九州や対馬・壱岐への徴集がかけられた。御上は3年間、国の防備にあたれという。しかも、解任後は現地解散。故郷にたどり着くまでに亡くなった人も多かった。命を懸けた旅立ちだった。 防人に 行くは誰(た)が背と 問ふ人を 見るが羨(とも)しさ...
View Article悲劇の大津皇子
壬申の乱で勝利を収めた天武天皇は、奥方の持統天皇と、自分の子と天智天皇の子らとともに吉野へ行幸した。壬申の乱が兄弟間での戦だっただけに、心配だったのだろう。天智天皇は、持統天皇との間の子、草壁皇子を次期天皇にしたいので、異母兄弟間で仲良くやってくれと子供らに“吉野の誓い”を立てさせた。ところが皮肉にも腹違いの四男、大津皇子が賢くて良い男だった。...
View Article四日市湊物語 ⑥七里の渡しとの争議
蔵町にあった浜往還一本松の湊は、不動寺に次ぐ二代目の四日市湊である。この港ができる以前(1596年)から、回船という渡海業が営まれていた。四日市の回船は、株主によって組織されていて、奉行所の許可監督のもと営業されていた。そして四日市の回船は、度々他の回船業者と争いを起こしている。...
View Article四日市湊物語 ⑦ 開栄橋西詰南角
“その男もまた、近代国家誕生に命を懸けた時代の立役者の一人である”で始まる、北野保さんの“『続 四日市浪漫紀行』開栄橋西詰に境界石現存”の文章より。 前島 密 従来の飛脚に代わる郵便制度の創設は、日本の“近代郵便の父”と称される前島...
View Article四日市湊物語 ⑨四大工事と臨港橋
明治39年、日露戦争が勃発し貨物の集散が一層激しくなり、もはや旧態に甘んじておれなくなった。そこで次の4事業を始めることとなった。①阿瀬知川の開削 ②入江の浚渫 ③海面の浚渫と埋め立て ④諏訪前(諏訪新道より本町)の道理改修 に取り掛かることとなった。 明治43年尾上町での起工式の様子 2021年5月17日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)...
View Article四日市湊物語⑩ ペスト騒動の末
昭和3年7月、四日市港の第1期工事全部が竣工した。しかし、工事を行っている頃、隣の名古屋港ではすでにその第2期工事が進められ、入港船の一部が名古屋に吸引され始めていた。そこへ突如として四日市にとって不幸な事件が発生してしまった。ペスト騒動である。 2021年7月31日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp) 2021年8月1日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街...
View Article四日市湊物語⑪国産振興大博覧会
昭和11年、新港竣工と同時に千歳町で開催された「国産振興大博覧会」は、国全国的にも空前の大博覧会で、陽春の港四日市は全国各地から押し寄せた人波で連日大賑わいであった。 2020年1月12日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp) 2020年1月13日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)...
View Article四日市湊物語⑫臨港橋その1
話は明治19年に戻る。稲葉三右衛門によって四日市港の修築が完成するとほどなく、三重県ではさらに新たなる四日市港の修築計画を立てることが懸案となってきた。内務省土木局のオランダ人技師デ・レーケによるプランもその一つであったが、財政難のため着工するまでに至らなかった。 デ・レーケ氏による四日市港の構想模型(明治19年)...
View Article四日市湊物語⑬臨港橋 その2
大正9年に作られた築港計画図 前回掲載の明治19年デ・レーケ氏の計画図と比べていただくと面白い この1号地は、明治43年から大正6年にかけて,当時の南起海岸(西末広町))と呼ばれた松原の海を埋め立てて出来上がった新四日市港の母体となる地区で、大正6年12月18日末広町と命名され、ここを基盤としてその東側の海の中に人口島を造成することになる。 明治40年...
View Article四日市湊物語⑮臨港橋その4
昭和13年頃 大正14年 千歳橋架橋と千歳運河の造成工事 今の千歳運河 遠くに千歳橋が望める(現在) 千歳橋 現在 千歳橋 東向き 突き当りが日本板硝子さん 小学校の頃港の写生に来た。橋を渡った左に食堂があったのを記憶していますが・・・ 国指定重要文化財<建造物 近代化遺産>末広橋梁(旧四日市港駅鉄道橋)<掲示板より>...
View Article四日市湊物語⑯その5
一方、浜街道から直角に分かれて築港に至る幹線道路に架けられた可動橋の臨港橋は、昭和7年8月に竣工した。径間72,7メートル、幅5,8メートル、工費7万2千円の巨費を要したが、これを四日市倉庫㈱(社長 熊沢一衛氏)と別会社の四日市臨港会社(社長 熊沢一衛氏)両社の全額寄付によって完成し、四日市港の二大名物として全国に名を挙げたのであった。 千歳運河に架かる臨港橋と鉄道可動橋(昭和10年)...
View Article四日市湊物語⑰ 稲葉翁伝 其の一
図書館にて、珍本発見である。『郷土秘話 港の出来るまで 稲葉三右衛門築港史』 真っ黒で字が読めまへん!貴重本です! 150ページほどの薄い本。テープによる修理が施されていて、発行は昭和31年11月3日と古い。著者は三重公論 大島重敬。 浜田の弘運館で印刷されている。挨拶文も著名な方が並んでいて、三重県知事 田中 覚・四日市市長 吉田勝太郎、大蔵政務次官代議士...
View Article