話は明治19年に戻る。稲葉三右衛門によって四日市港の修築が完成するとほどなく、三重県ではさらに新たなる四日市港の修築計画を立てることが懸案となってきた。内務省土木局のオランダ人技師デ・レーケによるプランもその一つであったが、財政難のため着工するまでに至らなかった。
デ・レーケ氏による四日市港の構想模型(明治19年)
だが、四日市港を取り巻く海運の状況は、港湾の拡大整備をそのままにしておくわけにはいかなくなってきた。明治22年、九鬼紋七、田中武兵衛らは、デ・レーケ案を基礎とした願書を県に提出したが受け入れられなかった。そして、明治39年になって、四日市市単独での四大事業の着工が決定した。
尾上町と末広町の間の阿瀬知川口に架けられた昌栄橋(大正4年3月13日竣工)
この4台事業の内、新生した埋立地である尾上町から西末広町に渡るための納屋運河に尾上橋が架けられたのは明治42年1月。この橋は四日市駅と築港を結ぶに必要な橋で、そのすぐ阿瀬知川川口には水門が架けられた。
その水門のある阿瀬知川口には、大正3年9月、昌栄橋が架設せられ、尾上橋から南に造成中の新四日市港の第1地区というべき1号埋立地への工事資材を運ぶ重要輸送路が出来上がったことになる。 椙山満先生 四日市市史研究より