当時、東京に山本卯太郎という人がいた。大正末期から昭和の初めにかけて、商港の荷役に必要な機械工事の設計、製作、施工を専門とする会社を経営していた。彼は技術家としての緻密さと周到さがあり、取引や交渉も早かった。先述の三つの可動橋は、主にこの山本工務所が引き受けることになり、まず、築港工事の基盤にあたる尾上町から2号地に渡る末広川橋から取り掛かるはずであったが、経費縮小の為、普通橋として掛けられることとなり、跳ね上げ橋として生まれるべき末広川橋は流産の運命に終わった。
昭和13年
大正14年、関西(訂正:完成の間違いでした 陳謝!)の近づいた2号埋立地が千歳町と命名されるに及び、それまで末広川と呼ばれていた築港運河は新たに千歳運河と名付けられた。そこに架けられた長さ32間、幅7間の鉄鋼橋は、大正15年3月9日に完成し、千歳橋と命名されて、当市最大の近代橋梁として脚光を浴びることとなった。
昭和7年 千歳橋
昭和11年 千歳橋を渡って国際振興大博覧会会場へ向かう市民
大正9年12月、四日市駅から末広町岸壁に近い四日市港駅まで開通していた臨港貨物船は、昭和6年12月、山本工務所の技術の粋を集めて出来上がった『四日市港駅鉄道橋』と呼ばれる径間54メートル幅4メートルの可動橋を轟々と渡り途中千歳町地内で多数の工場用引込線の枝を伸ばしながら第1埠頭に延長されていった。
千歳運河に架けられた鉄道可動橋
現在の末広橋梁
椙山満氏著 四日市市史研究 第7集より