四日市幼稚園の空襲当時の様子が、四日市市史第10号沿革誌より『罹災状況』に掲載されていた。罹災当時、敷地は高等女学校の一角にあった。名簿等の資料は疎開されていて無事であった。が・・・
昭和20年6月18日午前0時30分頃、第2回警報発令されるや、職員はいずれも自宅を出発し、園舎に駆け付けんとしたるも、敵機の投弾以外に早かりし為、途上にて既に民家の炎上に出会い、猛烈なる火勢の為、園舎に到着したる保母わずかに2名(平尾、山下)にして、壱岐園長まずありて、重要書類等の搬出に保母を指揮せらる折から、無数の焼夷弾は園舎に落下し、たちまち各所に火の手をあげ、遂に危険身に迫りしを以って、まず保母を避難せしめ、なおも園長は防火に奮闘中、猛火は四方より迫り園長と運命を共に遂に殉職せられたり、常宿の女使丁は、ようやく身を以って危急中に非難す。
園長は殉職された。そして、戦後となり
昭和21年3月1日 諏訪公園の西新地 演武場(4室)を借り受け開園、32名の児童で再開された。※ 演武場(武徳殿)は、焼け残ったことになる。
昭和27年10月15日 2階建て保育室(1)と玄関を増築し、保育室が6室となる。
昭和29年3月 児童の急増により、5歳児からの2年保育は廃止される。
昭和30年4月10日 橋北中学校敷地内に分園が出来る(後に橋北幼稚園となり独立)。
昭和37年5月20日 元町へ移転(旧市立産院跡)し、現在に至る。
昭和30年代の四日市幼稚園付近の様子が、名古屋タイムスに掲載されている。