大正13年
椙山満氏の文章を、過去のブログで紹介していました。
大正6年5月、米国の飛行家アートスミスが、旧港と海員掖済会前の海岸を中心に曲芸飛行があり、のちに海軍の水上機が離水着水を演技したのも掖済会前の海水浴場であった。掖済会の洋風建物の隣には、船大工の造船所、その南側(西側の間違いではないか?)には牧場の草原があって沢山の牛が放牧されていた。大正後期になるとここは旧港の防波堤で潮流が澱むためか、ヘドロが多くなって海水浴に適さなくなった。
掖済会裏の牧場が、なぜこの時代に、ここにあったのかを・・・“酪農・歴史”で検索してみました。
・農家の手によって酪農がおこなわれるようになるのは、第一次世界大戦の前後とされ、畜産業の一環として行われた。
・牛乳の普及が急速に加速したのは日清・日露戦争の時で、兵隊が傷病兵の栄養剤として牛乳を飲むようになったことで一般に広まりました。
・・・とあります。掖済会は、船員のための医療、宿泊施設です。大正期にペストが流行した折にも治療のための施設として利用されています。日露戦争終結が明治38年。四日市では、敗戦国のロシア兵を捕虜として預かっています。明治39年4月30日には、ロシア兵を送還していますから、牛乳の普及には関係ないかも知れません。
本町の水谷さんにお借りしました 相生橋を渡るロシア兵
多分 旧港の税関前から船に乗るロシア兵
四日市に掖済会が出来たのが明治41年3月。ペストの流行が大正5年。第一次世界大戦が大正3年〜大正7年。そして、昭和になって牧場の敷地は、四日市倉庫に売却されている。
如何でしょうか?掖済会と牧場は関係がありそうな気がしませんか?でなければ、四日市の一等地である旧港近くに、牧場を作る必要があったのでしょうか?
追記:三重製網へ入るところの「寅高」という文字は、人の苗字ではなかったかと想像しています。