堀木町のM君は同級生だった。中部中学校から西方向、田圃の向こうに集落が見えて、M君の家はその中にあった。秋の日の午後、学校が終わって遊びに出かけると家族総出で稲の脱穀をしていた。父親は亡くなっており、二人の兄さんとの作業だった。急ぐ秋の日に、藁くずが光りながら舞っていた。M君も若い頃に亡くなっていて、同窓会には一度も姿をみせなかった。
昭和13年8月
堀木町の水野さんも、“旧四日市を語る会 第二集”に農業風景のことを書かれている。
農家は二毛作で、春になると菜の花が赤堀方面まで一面に咲き乱れ、黄色の絨毯が敷き詰められた。その中を歩くと、衣服が花粉で黄色く色づく程だった。唱歌“おぼろ月夜”が思い出される。
夏になると、菜種は収穫され、夕方、種殻を燃やす煙が煙幕を張ったように広がった。やがて田の畔を蛍が飛び交うようになると、蛍狩りが行われる。
螢(♬ホタルの宿は川端柳~) byひまわり🌻歌詞付き|唱歌|HOTARU|Firefly - YouTube
こうして、田植えの季節を迎える。その準備として、用水路の土砂さらえが全員で行われ、正午の法螺貝を合図に一斉に田植えが始められた。菅笠や編み笠にたすき姿の早乙女や農業関係者総出で、ひと株ひと株手で植えられたものである。田植えが終わった水田からは蛙の合唱が聞こえ、のどかな田園風景が戻っていた。
参考画像です
稲が実り始める頃になると、イナゴが踏むほど居たものであるが、戦後は農薬の使用で見られなくなった。秋になり黄金色に稲が実ると一株ごとに鎌で刈り取り、束にして足踏み式脱穀機でモミにした。脱穀機の横で手伝う子供の姿がよく見かけられたものである。モミは庭先に広げられたむしろに天日乾燥されて、藁の俵に詰められた。刈り入れ後の田には“スズミ”と呼ばれる藁束が山の形に積み上げられていて、冬の藁作業用に準備されていた。冬の間、この“スズミ”に野ネズミが住み着き、捕まえたネズミを駐在所へ売りに行ったものである。(大正5年のペスト騒動以来、ネズミの買い取り制度は残されていたのか?)
冬の間に菜種の苗が植えられ、春には青菜が顔を出して、菜の花の春を迎えるのである。
昭和13年8月1日、三滝川が堀木町北方の堤防で約100メートルにわたり決壊した。