“旧四日市を語る 第二集”に、北岡さんが“回顧”として“かき舟”のことを投稿してみえました。大正期から昭和の戦前にかけての、のどかな風景が描かれています。
明治44年 三滝橋南詰に牡蠣船が出されていた
三瀧橋の袂、往年の色町(南町?)、商店で賑わった東海道。私が生まれ育った北町の堤防のあたりも、戦火でひとなめ、すっかりカラー変えしてしまいました。
水量の多い三瀧川のザアザアの音、ここでよく泳ぎ、ハヨ、フナの瓶つけ(?)をしたものでした。このザアザアに腰までつかり、四日市の祭礼前に障子洗いをしたりして、多くの人が洗濯場として利用したものでした。
又、四日市商店連の花火が打ち上げられ、昭和13年頃まで仕掛け花火もここで行い、当時としては豪華なものでした。
明治期の広告 水谷宣夫氏所有 中央に牡蠣船の広告が載っている(正しくは、かき船か?)美味にして滋養の親玉 とある
あの頃としては近代的な三瀧橋!その橋の袂の名物“かき舟”が出ていて、広島から日通便で取り寄せられた生がきの為、産卵期を避けた10月から4月海山道さんの祭りまで営業、その他の期間は、舟の屋台は取り壊して休業していました。あと、三瀧館(旅館)、北町通り、橋詰にあった消防車の車庫、道路を隔てた交番所との間、三瀧橋へ上がるコンクリートのてかてかの坂道、どれからも思い出が蘇ります。
立体写真 左右の焦点を離すと遠近感が出ます 水谷宣夫氏所有
“三滝川夕涼”水谷百碩画 明治期以前と思われる。三滝川にかかる東海道の端が三滝橋です。長さ52間(95メートル)もありました。橋の上と河原には屋台が並び、人々が夕涼みを楽しんでいる様子が描かれています。髪型に注目すると、髷を結っているのが分かります。
“三滝の霽月(せいげつ)”出口對石画 雨上がりの三瀧橋の風景を、西に傾く月と共に描いています。河原には屋形船のようなものが描かれていますが、これは料亭の牡蠣船で、百碩の絵にある屋台を出した河原に、店を置いたものと思われます。木造橋の三滝橋としては最後の姿で、大正12年(1923)以前の風景でしょう。四日市市立図書館刊“知られざる四日市の面影”より
<付録> 大好きな曲の オシウリ です。