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四日市の中世城館

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“四日市市史研究”の第4号に、駒田利治が“四日市の中世城館”と題して投稿してみえます。その前に“中世”という時代のくくりから調べました。

『日本の中世とは、院政から戦国時代までの11世紀後半から16世紀後半までの期間を指す日本史における時代区分である。これは土地制度(荘園制)に基づいた時代区分であり、荘民が存在せず田地のみが広がる免田・寄人型荘園から、村落なども囲い込んだ領域型荘園への移行を画期とする。戦国期に入り動揺を見せていた荘園制は、豊臣秀吉による太閤検地の実施と石高制の成立により解体し、日本の中世は終焉を迎えた。』

四日市の城館(じょうかん)は34カ所(平成3年現在)発見されていて、平安末期から戦国時代にかけて存在していたという事であります。この地域は室町幕府の支配力も強く、卓越した国人領主の成長は認められず、在地性の強い土豪層が城館を築いていました。

四日市の地形は、西に鈴鹿山脈のすそ野から山地が広がり、中央部は鈴鹿山脈から伊勢湾に注ぐ中小の河川とこれらに挟まれた丘陵・台地が大半を占め、東は伊勢湾に面する沖積平野が南北に広がっています。

中世城館の多くは ⑴河川流域 ⑵沖積平野に臨む丘陵・台地の端部、あるいは ⑶沖積地上に分布し、丘陵地帯に築かれているものはほとんどない、としています。

北部は密度が高く、多くの土豪が城館を築いています。これは、朝明川流域で農業生産力豊かな地であり、近江の国へつながる“八風街道”沿いであったためです。

また三滝川流域は菰野から近江の国へつながる“菰野道”沿いになり、東の沖積地帯は、後に整備される“東海道”筋になりますが、南西部の内部川流域上の水沢方面に至る丘陵地帯は、生産性が低く、多くの土豪を生み出しえなかったと考えられます。(水沢には、水沢城跡と城の山城跡があります)


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