伊坂城址の発掘調査報告書が、平成15年(第1次・第二次)と平成24年(第3次)に出されている。
第1・2次調査報告書より
平成15年3月 三重県埋蔵文化センター 所長 吉永 康夫
日本人は歴史好きな民族といわれます。その中でも人気の高い時代が、戦国時代で、私たちが住む東海地方は、信長・秀吉・家康という“英雄”を生んだ土地でもあります。しかし一方で“英雄”たちに敗れ、あるいは服従していった人々に対して、私たちはどれほどの知識を持ち、どのようなまなざしをもって接することができているでしょうか。中世という時代を通じて各地に生まれてきた様々な集団が、統一の障害となるもので“英雄”たちと比較して、未熟で弱小という考え方のみでは、歴史の一面しかとらえていないといえましょう。
第二名神高速道路の建設に伴って行われた伊坂城跡の発掘調査では、戦国時代を通じて営まれた城跡を形成する多くの屋敷地の(を)確認することができました。これらの屋敷地は、戦乱や社会の変動に際して侍や百姓たちが、それを安全に築いたものであると考えられます。
伊坂城跡発掘調査報告 - 全国遺跡報告総覧 (nabunken.go.jp)
場所が分かりにくいので 下の図で確認ください
第3次調査報告書より
平成24年3月 三重県埋蔵文化センター 所長 河北 秀美
四日市市域を含む北勢地域の戦国時代は、伊勢長島(現桑名市)の願証寺を本拠とした一向一揆のは(ほ)か、“国人層”と呼ばれる戦国大名までは成長していない地域の有力者層が複数盤踞し、互いに牽制しあったり、時には連合しながら、当地を治めていました。16世紀後半、尾張から興った織田信長は、天下統一を目指す過程で隣国の伊勢支配も目論み、永禄10年(1567年)に美濃を攻略した後、北勢地域へも攻略を開始しました。
伊坂城跡も、こうした国人城主によって築かれたとみられる戦国時代の城跡で、過去の調査で城の土塁の外側には多くの屋敷地があることが分かっています。浄化(城下)への集住化は信長・秀吉期を経て江戸時代に完成する都市形態ですが、第3次調査の地区も、こうした城外に並ぶ屋敷地群の一角にあり数多くの戦国時代の生活に関わる遺構・遺物が確認されています。
上の図の赤い矢印からの空撮
伊坂城は15世紀後半から16世紀前半の戦乱の社会情勢により、城主らが本村から分離して人工的に造ったものである可能性が高いと思われています。今後、本丸跡の調査に移るそうで、伊坂ダムから容易に入れる城跡の整備が進めば、より市民に関心がもたれる城址となるでしょう。
門に使われていた六つの礎石が伊坂ダムの公園内に移設されていることを聞きました
“古屋敷”の地名が残り 屋敷群のあったことをうかがわせます