商工春秋12月号が届きました。
今月は水谷百碩画伯(1868〜1928)の“掃部堂(かもんどう)の秋景”です。
天正3年(1575)の浜田城落城の時、浜田家の家臣中川掃部助が戦死した場所を地元では、かもんど(掃部殿)塚と呼び、祠(ほこら)も設けられていました。
百碩は、掃部堂(かもんどう)という字を当てたようです。
たわわに実る稲穂と雀を追い払う鳴子の様子が鬱蒼とした森と対照的に描かれています。
現在もかもんど(掃部殿)塚は、天理教四日市分教会の中に残されています。(四日市市立博物館蔵)
天正3年(1575)織田の軍勢に攻められた浜田(鵜ノ森)城主である遠江守元綱の家臣中川掃部助は、恨みを呑んでこの地に果てました。
以来、塚の周辺は鬱蒼とした森となり周辺住民に恐れられていましたが、現在は、四日市天理教境内にその碑を残すのみとなりました。
今月は水谷百碩画伯(1868〜1928)の“掃部堂(かもんどう)の秋景”です。
天正3年(1575)の浜田城落城の時、浜田家の家臣中川掃部助が戦死した場所を地元では、かもんど(掃部殿)塚と呼び、祠(ほこら)も設けられていました。
百碩は、掃部堂(かもんどう)という字を当てたようです。
たわわに実る稲穂と雀を追い払う鳴子の様子が鬱蒼とした森と対照的に描かれています。
現在もかもんど(掃部殿)塚は、天理教四日市分教会の中に残されています。(四日市市立博物館蔵)
天正3年(1575)織田の軍勢に攻められた浜田(鵜ノ森)城主である遠江守元綱の家臣中川掃部助は、恨みを呑んでこの地に果てました。
以来、塚の周辺は鬱蒼とした森となり周辺住民に恐れられていましたが、現在は、四日市天理教境内にその碑を残すのみとなりました。