本日、下総人様より“ラヂオ劇場”の件でコメントをいただきましたので、お答えさせていただきます。
昭和53年のマップ
空襲で四日市の市街地が、焼け野原になったのが昭和20年6月。昭和22年には、新田町に800人収容の“ラヂオ劇場”が出来ました。当時は実演劇場(映画が製作されてなかった為)でしたが、昭和31年“四日市日活劇場”となり、日活映画専門の上映館となりました。“日活青春路線”を迎え、石原裕次郎はじめ、浅丘ルリ子、吉永小百合、浜田光男、小林旭、赤木圭一郎等の俳優さんが活躍、映画の黄金時代を送りました。
日活劇場の北隣にあった自転車置き場が畳敷きになっていて、経営者の方がどっかと鎮座してみえました。そこで、あま~いお饅頭をいただいた記憶があります。やがて映画産業は下降線をたどり、昭和44年6月日活ロマンポルノ路線を打ち出すことになります。昭和56年11月、日活は諏訪栄の大鯛ビルへ移転、昭和63年7月“ロッポニカ・四日市”に改称され現在に至っています。「四日市の今昔」樹林舎刊より
昭和30年代、地主の相場岩松氏が“四日市日活”に続いて、西側に松竹直営の“四日市松竹劇場”を建てますが、昭和40年に松竹は撤退します。翌、昭和41年、塩浜の海軍燃料廠の旧軍人グループによる三重劇場スタッフが洋画専門の“四日市宝塚劇場”として経営を始めましたが、映画界の斜陽と共にポルノ路線に移り、昭和61年8月31日“ローマの休日(老婆の休日ではありません)”と“陽の当たる場所”の上映で別れを告げました。