天正十年六月、つまり1582年6月2日早朝、京都本能寺に滞在していた織田信長を家臣であった明智光秀が謀反を起こし襲撃します。
包囲された信長は寺に火を放ち、自害して果てる。駆け付けた嫡男 信忠も抗戦するがやはり自害した。一方、信長の首をとった明智光秀も6月13日、備中 高松城の戦から引き返して来た羽柴秀吉軍と京都 山崎(長岡京あたり)で衝突(山崎の戦い)、敗れて命を落とした。こうして豊臣秀吉の天下統一が進んだ。
思案橋
一方、この時京都に滞在していた徳川家康は危険を感じ、岡崎へ引き上げることとなる。伊賀の衆に守られたりしながら徒歩で鈴鹿山脈を横断するが、四日市宿へ出た思案橋で、海路を選ぶか陸路を選ぶか迷った。“どうする 家康!”
正徳3年の四日市地図
“四日市と徳川家康”と題して四日市大学教授の播磨良紀氏が、平成12年11月7日「第15回 市史懇談会」で講演してみえ、これが四日市市史研究の14号に掲載されていました。
昭和53年
播磨氏「・・・四日市と家康との関係は、あまり知られてないところです。歴史に詳しい方などは、本能寺の変の時、四日市から三河へ渡ったという渡海伝承を思い浮かべられるかも知れませんが、それ以上に四日市との関係には密接なものがありました。」つづく
<余談>当店のトイレはずいぶん古い。半世紀は経つか?いま改めて見直し、驚いた。