歌川広重 東海道五十三次より 桑名
天保5年10月10日、四日市宿の旅籠屋徳右衛門方で起きた負傷者4名(大石安五郎・下男安兵衛・浅之助・七右衛門)を出した事件だったため、幕府信楽代官所の(四日市宿は天領だった)四日市出張陣屋に届け出がなされた。14日、取り調べのため信楽代官所から手代 斎藤立蔵がやってきた。そして、大塩安五郎の尾張藩、仙助らの居住する桑名藩、事件の舞台となった四日市宿の三か所から16名に上る事件関係者が集められた。10月15日のことである。また、事が東海道の宿場で起きたので、五街道を管轄する江戸にある“幕府道中奉行所”へも届けられ、翌 天保6年2月17日には桑名藩の江戸屋敷留守居がやってきて、吟味取り調べのため江戸まで護送するように命令が下された。
東海同五十三次より三島
これが総勢58名の大護送集団となって江戸へ向かうことになる。手鎖腰縄付きの16名に同心、足軽、中間、吟味役、宿役人ら42名で、4月7日の朝出発、21日にようやく品川へ着いている。ここで心配してしまうのは、掛かった経費は誰が出したのか?ということである。60名近い集団が、ぞろぞろと14日間東海道を行き来したのでアリマスからねぇ。
東海道五十三次より 品川
吟味取り調べは進み、警護に付き添って行った藩士たちは、4月末には江戸を発って中仙道経由で桑名に帰っている。そして、6月5日に“道中奉行”に呼び出された16名の内、仙助と花香以外の者は、取り調べの上、帰村を許され6月22日に桑名宿へ帰っている。また、7月中旬になると、仙助と花香も傳馬年寄に付き添われて帰った。帰ったといっても、判決待ちの状態である。 再度江戸から呼び出しがかかり、判決が出た! つづく