GGシニアのまち歩き第3回は、皆様のご協力の成果です。楽しい動画がでけました。
(59) 「たけちゃんの四日市街歩き/第3回、四日市、四つ(数えたら五つ)の橋の物語」 - YouTube
四日市宿での刃傷事件 出納帳編
天保5年10月10日、四日市宿の旅籠屋徳右衛門方で起きた刃傷事件。桑名藩は事件発生後四日市宿に役人を派遣し、その後被疑者16名の江戸護送に携わっている。要するに、事件調査の運営は、桑名藩によって行われた。その経費明細が現在も残っていると上野秀治氏は“四日市市史 第1号”で述べている。
事件直後から翌月にかけて、桑名藩士7名が交代で四日市宿に赴いている。この出張費は使用人も同額で1人1泊 銀1匁2分。他に雨具や駕篭持ち人足の費用も発生していて、総計40両近い金が藩から支払われている。
次に、すべてが終了したのちに慰労金が藩より支払われている。表にまとめていただいてあるので掲載する。
事件発生以来、四日市宿に足を運んだ労をねぎらう意味で、藩士らに慰労金という項目でお金が与えられている。100疋(ひき)が1分の計算になり、身分によって差が出ている。表の下2列の中嶋 庄右衛門が何者なのか分からないが、丹後縞の袴地1反を買い与えてられている。また、東富田村見廻り役の藤吾は、40日ほど四日市宿に詰め、信楽代官所の使い走りも行ったため5貫文を賜っている。こうして慰労金の合計は3両ほどになる。
次、交際費であるが、桑名藩主の松平定永から直々に出張してきた信楽藩の斎藤立蔵へ20両が送られている。「殿直々であるから内々に」と渡されたそうだが、20両という多額の金であったため一旦断っているが、結局 懐へ入れている(素直さに欠けるヤッチャ)。
ほかに藩より、“肴代(一席設けたのだろう)”、“時雨蛤(名産品のお土産でアリマス)”、“菓子代”、“謝礼”、“お茶代”、“酒肴代”と、慰労をねぎらって食事をしたりお土産を渡したりしている。この中で、宿逗留世話代として宿扇屋に1両3分、宿の下男に1分、同心を泊めた桧全屋 茂右衛門には茶代として3分支払われている。どうやら武士からは宿泊料としては取らなかったようだ。結果、交際費は、藩主が斎藤へ渡した20両プラス8両ほどになる。 いよいよ最終章へ つづく フーッ!