四日市は、明治30年8月市制実施をしました。そして、稲葉三右衛門翁の遺志を引き継ぎ、明治39年に市は港の四大事業に取り掛かったのです。(椙山 満著“四日市市史より)
その四大事業とは、
1.阿瀬知川の開さく(川口の築港化で、のちに末広川と呼ばれる運河になる)
2.入江の浚渫(港―蓬莱橋―開栄橋―思案橋に至る運河の浚渫のことで、のちに浜町運河と呼ばれるもの)
3.海面の浚渫埋立(高砂町から南方の海浜を埋め立て、南納屋町との間に納屋運河を造成し、1.の末広川と結ぶ。
4.訪新道の近代化(諏訪神社-沖ノ島―四日市駅(国鉄)間道路の近代化と、更に高砂町まで延長して新しい港新道をつくる。
明治43年四日市港起工式
この四つの大工事は、幾多の難局(シーメンス事件や第1次世界大戦)を乗り越え、大正期になってようやく完成されました。
四大工事の内2.によって埋め立てられた尾上町と東海電線のあった西末広町とを結ぶため明治42年1月尾上橋が架けられ、四日市駅と港をつなぐ重要な橋となりました。そして、そのすぐ南の阿瀬知川川口に水門が設けられ、大正3年9月、尾上町から南の1号埋立地へ資材を運ぶ昌栄橋が架設されたのでした。
明治44年
大正11年
当時、南起海岸とも呼ばれていた砂浜地は、新しい港の母体となる地域で末広町と命名され、東に出来た第二埋立地である人口島を千歳町と名付けられたのです。