「軽便鉄道そのものも、昭和40年代にはほとんど姿を消し、その役目をひっそりと終えた。そして平成の現在、リニアモーターカーが時速581キロメートルの世界記録を達成しても、軽便鉄道の残党はまだ生き残っていた。近鉄内部・八王子線、三岐鉄道北勢線である。」“ニッポン鉄道遺産を旅する”交通新聞社刊(平成17年11月発行)より
四日市市史 椙山満著より
また、平成元年11月発行の 記念すべき“旧四日市を語る 第1号”に、岡野繁松先生が、三重鉄道について一言 書いてみえます。
「三重鐡道の八王子線は、旧式のバス(ボンネットが前に出ている)のタイヤが鉄道になっている車で線路の上を走っていた。皆はこれをガソリンカーと呼んでいたが、本当の名前は軌道自動車であった。湯の山線の電車は車両の幅が狭く、長さも短く、窓はガラス戸とよろい戸があって共に上下して開閉した。両線とも線路は狭軌で小型の車両だったので、軽便といっていた。八王子線は鵜の森前から川村鉄工所の間を通って、きっついカーブをえがいて駅に入った。この川村鉄工所跡がジャスコであるので、A館とB館の間を走っていたことになる。(平成元年当時)」
「軽便鉄道の開業から97年(平成23年現在)。“49災害”によって八王子~日野間は廃線となり、八王子から水沢までの延長計画は幻に終わり、小さな電車は西日野で折り返し運転されている。」北野 保著“よっかいち歴史浪漫紀行”より
大正期に四日市鉄道を走っていた蒸気機関車
八王子から水沢まで西へ伸ばそうという計画があったのでしょうか?わたしは、内部と八王子間を回遊するように繋げる計画があったと聞いたことがあります。内部の城館跡の北西は、すぐに笹川団地が迫っていて、その北側には日野・八王子を控えております。日永駅を分岐に八王子~内部間が回遊できるのも又、楽しい構想でゴザイマス。