四日市駅(現在のJR四日市駅)の北西部にあたるところに、“新丁”がある。新丁は江戸期から続く古い町で、昭和37年の戦後復興土地区画事業時に“新町”と改名された。
大正期の四日市駅付近
新丁といえば、湊座を正面に見て南に延びる“湊小路”を忘れてはならないと、岡野繁松先生が“旧四日市を語る 第17集”で書いてみえる。現在の本町通商店街北側の“みだや金物店”を北へ入ると“セントラル歯科クリニック”が建つ。このあたりに“湊座”(大正3年4月落慶)があり、そこへ行くまでの短い距離が市内一番の繁華街、湊小路であった。
湊小路 昭和3年
本町から北へ入ると右にカフェがあり、ウェイトレスというか女給というか、妙齢の女子が割烹前掛けをして立っていた。隣は写真屋、遊技場(コリントゲーム)、向かい側には散髪屋、バー、そしてバーと続き、飲み屋、飲み屋と並んでところ狭しとひしめき合っていた。二階は通しで広い食堂があった。
日が暮れると、すずらん灯の淡い光と、飲み屋から漏れる裸電球が小路を照らしていて、狭いながらも歓楽街の雰囲気を醸し出していた。
昭和25年 東宝劇場
芝居小屋の“湊座”の前には、何々の丞とか何々の助等の招き看板がかかり幟が並んでいた。入口で木戸札を買い、高い台の受付で渡して中へ入る。受付の人は“イラッシャィ”と云って、“ガシャッ”と大きな音でその木戸札を揃えて、20枚ほどになると入口へ戻していた。中へ入ると下足番が履物と下足板を変えてくれる。下足板には“いの七番”とか書いてあった。段を上って客席に入る。そこまでには階段があって二階へも行けるようになっていた。客席は畳敷きの四角い桝席になっていて、分厚い板で仕切られており、人はその上を通行した。休憩時になると売り子が煎餅・落花生・キャラメル等を売りまわり、湊座本館の左に建つお茶屋から茶子がお茶や煙草盆を早足で運んでいた。拍子木の合図で芝居が始まった。
湊座は両側に花道を持つ本格的な芝居小屋だと聞いていた。回り舞台になっていて、上映中でも次の準備が、金槌の音をさせて舞台の後ろで続けられていた。大正3年4月9日落慶の折には、関西歌舞伎一座が記念上演し、5月には川上定奴一座が公演している。時代は移り映画の普及と共に昭和17年“四日市東宝劇場”と改名されるが昭和20年空襲で焼失する。
昭和37年 四日市東宝劇場
しかし、翌昭和21年3月に再開、焼け跡の町の真ん中で実演や東宝映画を上映して、娯楽の少ない戦後の町に寄与していた。昭和38年10月、映画の衰退と共に長い歴史に幕を閉じた。