三瀧川に阿瀬知川が流れ込んでいる様子がはっきりとわかります(四日市市立博物館蔵)
文化展望四日市が13号(平成8年)から新しく生まれ変わっています。特集は“東海道発見”。そして、14号は“海・うみ・産み”がテーマでした。文明5年(1473)に書かれた『文明五年宮司引付』に四日市庭浦が登場します。比較的船が小さかった当時の湊は、海岸線ではなく大きな川から少し遡った(さかのぼった)ところに造られました。流れ出す土砂の心配がなかったからです。
舟場 は十里の渡しになるのでしょうか?
江戸時代初期の『大日本五道中図屏風』(四日市市立博物館蔵)と
錨のマークが湊でした
『寛文年代地図』をご覧いただくと、三瀧川へ阿瀬知川が合流しているのが分かります。四日市湊は、阿瀬知川へ遡ったところにありました。新丁にあった不動寺の一本松には灯篭が掲げられ、帰る船の目印になりました。この入り江が第一の湊です。この不動寺の明かりを頼りに、潮が満ちる時を狙って多くの漁船が湊に着岸される風景が想像できます。つづく