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Channel: 花の四日市スワマエ商店街
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稲葉湊の完成

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明治17年5月5日、高砂町荷上場前の広場で落成式が挙行され、当時の四日市の知名人を含む数百名が集まった。明治3年10月悲願を起こしてより、17年5月までの15年間、しかもその間、真に工事に没頭できたのは5年余に過ぎなかった。総工費20万円、昭和30年当時のお金に換算しても5億3千500万円が投入されたのである。帰宅後、家族関係者を前に、三右衛門はしみじみと語った、

四日市湊開墾図 左に燈台がみえるのにご注目 明治7年頃までは存在していたのでございます

「みなさん有難う、本当に有難う。今日の事あるはみんな皆さんのお陰や、私のようなものをよう助けて下された。三右衛門からお礼を申します。明日は、得願時(稲葉家の菩提寺)と法泉寺(川原町 兄 、山中伝四郎の墓)へお参りして、先代様と兄さんに報告をしたうえ、その足で高須(三右衛門の実家)へまいります。これで私も日本晴れの気持ちや。何もないが、心ばかりのお祝いをやりましょう。」

四日市湊風景

その後も、三右衛門は補足工事や、債務工事に1年余没頭している。三右衛門は、明治14年から借地料を徴収、半分は債務の返済に回して一切の残務を済ませた。三右衛門の手に残ったのは、中納屋の家と屋敷だけで、稲場町、高砂町両町の土地も蔵町の倉庫も人手に渡っていた。膨大な資金を擁し、先のみえない築港事業を、個人の事業としては限界があることを身に沁みていただろう。そして、自分なりの築港事業を終えた。明治21年、稲葉三右衛門は藍綬褒章を受ける。

稲葉三右衛門翁の湊図

“郷土秘話 港の出来るまで 稲葉三右衛門築港史”の著者 大島重敬氏は、最後をこう締めくくっている。『為に一家の資財を傾くるに至る』の一句は、真情を知る者の肺肝を衝(つ)き、以って後人の範とするに足るであろう。

稲葉三右衛門翁


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