市場(いちば)で発展してきた四日市。明治以降の定期市場は形を変え、スーパーマーケット形式が出はじめました。文化展望四日市に岡野繁松先生が“庶民の市 四日市”としてこんな投稿をされています。
明治32年、竪町に“勧工場”という平屋建ての私設バザーが出来た。通路の両側に玩具や洋品雑貨が並べられていたという。その後、個人経営となり“湊屋玩具店”となったが、人びとは『おもちゃや』とは言わずに『かんこうば』と呼んでいた。
増田武夫氏の残された浜往還 昭和2年 勧工場
大正8年、村田七衛門氏が東中町に出店制の“大正バザー”を、大正14年には、伊達貫一郎氏が竪町に同じような“東洋バザー”を建設した。やや高級品で敷居が高かったと聞いたことがあるが太平洋戦争で企業整備にあった。(閉店させられたということだろう)
大正バザー
大正10年5月新丁の湊座前に“第一公設市場”がつくられたが立ち退きに遭い、市の指導で当時の鈴木眼科の南に移転。15軒ほどの店が、大売出しなどをして賑わっていた。しかし、昭和5年に再び立ち退きを受け閉鎖した。“第二公設市場”が、大正11年北町にも開設されているが、長く続かず閉鎖されている。市の指導であるところが注目されるが、市民からの要求声が大きくないと続かなかった。
第二次世界大戦で焼け野原になった旧四日市市内に公設市場が復旧した。昭和25年6月慈善橋南詰に商業者の“共栄会”を一部に取り込んだバラック建ての即売所が開設。昭和30年になると、出店農家の増加で拡張している。
昭和24年8月、三滝通りを挟んだ市役所西側の農協連所有地に“三泗農産物即売所”ができたが、昭和26年8月に商工会議所裏側に生鮮食料品を主とした販売を造った。そして、昭和35年11月になると諏訪へ移っている。
昭和43年
この頃、私はお袋についてこの“こうせつ”へよく出かけた。市営駐車場の南西あたり踏切を渡ると“こうせつ”があって、一六三八(いちろくさんぱち)の日に開かれていた。凄い賑わいで、のちに道を隔てた西側にも増設された記憶がある。昭和48年に西浦即売所に移転している。近年閉鎖でもめていたが、現在は駐車場となっている。
昭和31年頃