“昭和30年代の諏訪のまち”の第2回目です。前回の辻写真屋さんから諏訪劇場周辺を歩いてみました。ご覧ください。(下の文字をクリック願います)
「写真で見る昭和30年代の四日市/四日市を掘り起こし/第2回」 (youtube.com)
昭和23年7月、新田町に私は生まれた。新田町は四日市宿でなく 浜田村地域で、お爺さんは、諏訪神社の敷地内に店を設けた。明治18年の頃である。当時は新参者の小さな店で、商工名鑑などには一切登場しない。その後空襲などにあって苦労は尽きなかったようだ。戦争が終わって生まれた私は団塊の世代第二弾で、戦後復興は子供の頃の成長とともに進められた。
当店が建つ東海道沿いのスワマエ通りは、四日市の玄関にあたる諏訪駅と当時一等地であった諏訪新道を結ぶ中間地点にあたり、多くの人が行き来していた。
夏祭りの飾りで賑わう諏訪前通り
わたしの家は、店に併設された仕事場と住居の二つに分かれていた。この住居は私が生まれるというので建てられたと聞いている。間には諏訪神社から流れてくる下水が通っていて阿瀬知川へと合流していた。
店の南 子猫を抱く私
その下水はコンクリート板で蓋がしてあり、上にトイレやふろ場がつくってあった。夜、店と住居の間を渡るのが怖くて、走り抜けたものである。
店と住居の間で子猫と遊ぶ私
これらの写真は、昭和32年に撮られた。なぜ分かるかというと、住居の2階から物干しに出る窓に立つ写真の下には、当時上映中の日活映画『白夜の妖女』の看板が立っているからである。 つづく