当家の西にある路地を南へ進むと線路に出た。ここから右方向に諏訪駅が見えた。国鉄から出発した名古屋行は、軋み音を立てて急カーブを曲がり諏訪駅に着く。この線路は新しく近鉄四日市駅が出来た為、昭和31年9月に廃線となった。
四日市の昭和 樹林舎刊より
線路が残る貴重な風景。諏訪駅前の踏切から東方向の写真だ。今気がついたのだが単線だった。左に草野洋服店の看板が見える。この先には旧東海道が通る諏訪前通りがある。
撮影 辻俊文氏
昭和35年の写真は辻さんが撮ったもの。線路は取り外され道路らしきものが出来つつある。これから一挙に商店街が形成されていくことになるのだ。冒頭に書いたが、家から路地を入った突き当りに線路の柵があった。写真の左部分にあたる。人だかりがしているので“何か?”と覗くと、柵を背に“パッカン屋さん”が店を出していた。というよりも、幼稚園児の自分にはそれが何かはよく分からなかった。器械を火にかけて、ぐるぐる回している。
しばらく見ていて、ふと気がつくと周りには誰もいなくなっていた。そして、その瞬間は突然やってきた。
バッカーン!
当時は鍋などの入れ物に“お米”を持って行った。“パッカン屋さん”は、そこから大部分のコメを抜き取り、お菓子にして返した。網から開けられたパッカンは、一斗缶に入れ水飴を加え、素早くかき混ぜられる。出来立てで温かいパッカンは、程よい甘さで店頭のお菓子よりずっとおいしく感じた。
間違いがあればご指摘ください
線路に出た西側には草野洋服店、反対側には諏訪前通りに抜ける路地、その左側に腕の無い多田さんの駄菓子屋、向かいには、線路を背に山本さんの小さな店があって一度だけ遊びに行ったことがある。紳士服ヤマモトさんは、この後一気に成長する。“フランスへ行きたしと思えども・・・(萩原朔太郎作)”は山本さんの好きな詩だった。