岡野先生が「旧四日市を語る」に書いた、戦前のスワマヱ通りである。1番街の通りに諏訪驛があって、内部・八王子線の発着場でもあった。
東海道の南の外れに位置したスワマエには、魚屋、薬屋、表具屋、小料理屋、仏壇屋、八百屋、染物屋、お茶屋、郵便局、洋品店、自転車屋、米屋、時計屋、うどんや、毛糸屋、化粧品屋等あらゆる商店が揃っていた事が分かる。むしろ飲食店は少なく、諏訪神社の前に巴軒という名のカフェが見当たるが、どんな店だったの気になるところだ。
比較的まじめな通りだったことが推測される。
岡野先生が「旧四日市を語る」に書いた、戦前のスワマヱ通りである。1番街の通りに諏訪驛があって、内部・八王子線の発着場でもあった。
東海道の南の外れに位置したスワマエには、魚屋、薬屋、表具屋、小料理屋、仏壇屋、八百屋、染物屋、お茶屋、郵便局、洋品店、自転車屋、米屋、時計屋、うどんや、毛糸屋、化粧品屋等あらゆる商店が揃っていた事が分かる。むしろ飲食店は少なく、諏訪神社の前に巴軒という名のカフェが見当たるが、どんな店だったの気になるところだ。
比較的まじめな通りだったことが推測される。
ここに「旧四日市市内 東海道往来」増田武夫著という本がある。昭和54年発刊とあるから、30年以上前のことだ。うっすら記憶にあるのは、当時おやじを訪ねてきた人がいて(それが増田さんだった)、御大典(昭和4年)当時の商店の並びを話し合っていた。ひとりの人の、地道な苦労が実ったのがこの本で、昭和天皇即位の頃の東海道が再現されていた。増田さんはその後、浜往還の町並みの本も出された。ここに尊敬の念を込めて深く感謝申し上げます。
ということで、昭和4年の新田町の街の並びを掲載させていただく。
真ん中を通っているのが旧東海道。右に東西に走る(伊勢電鉄)のが現在の1番街通り。ここに諏訪驛があった。
中央に水谷仏具店がある。鉄次郎はお祖父さんの名前で、桑名からここへ来たのは明治の中頃だった。新参者である。
諏訪神社から北へ、米角屋さんがあってその隣に巴軒というカフェがあった。そして西新地へ向かう。
本町のまちかど博物館(水谷さん)から写真が届いた。いつも気にかけていただいている。ありがたいことだ。感謝の念に堪えない。さて、この写真はいったいどこか?日時は記されていない。いったい何時ごろか?
多くの看板が目に付く。北岡時計店の看板から北岡さんの近所?中央の看板からパチンコ屋さんの角のようである。右を見ると電球の並んだアーチ形の街路灯。ここは、諏訪南大通り(現 公園通り)である。パチンコ屋は2軒あった、甲子園とラッキー。角に建つのは甲子園の方だ。真ん中に置いてあるごみ箱に『のんきや』の文字が。のんきやは辻さんの写真から昭和33年には既に建っていた。道を隔てた東側である。
左に建つのがのんきや
開店当時ののんきや
諏訪劇場の映画の看板「花の白虎隊」とあり、黒川弥太郎の顔が描いてある。調べると主演は市川雷蔵となっているが、黒川弥太郎も脇役で出ている。昭和29年8月25日封切り。当時市川雷蔵は無名の新人で、看板描きは、描き慣れて絵になる黒川の顔を描いたのだろう。
看板描きは左ポスターの黒川の顔を見ながら描いた
従って、ここは甲子園の角、昭和29年8月末ということになります。私が諏訪公園内にあった四日市幼稚園の園児の頃でした。この年、大協石油の原油タンクが爆発します。
特別付録 本日の甲子園跡 三重の食材とお酒で うましくに さんが営業中です
辻さんの諏訪駅前を撮った写真。正面看板にある大映映画、菅原健司の「東京暴力団」と左の弥生館の志村喬主演の「男ありて」。これらから時は、昭和30年6月となる。15時過ぎか?梅雨の晴れ間の午後、帰路へ向かう女学生と、友達と遊びに出かける子供たちがすれ違う。朝の雨で地面は濡れている。
ちょうど映画の看板下から逆に駅方向に撮られた写真を、本町の水谷さんから預かった。29年9月とある。辻さんの写真から10か月前である。場所の確認は、遠くに諏訪駅の屋根が望め、その手前角に木組み看板の骨組みが見える。これからベニヤさんの看板が取り付けられることとなる。一番手前の建物が何なのか?乱雑に立て看板が立ち、出入り口は二か所。公衆便所の可能性が高い。
左が諏訪マーケットのマルモ物産。甘酒の素の看板が掲げてある。それにしても大勢の人が諏訪駅前を歩いている。学生や子供が混じる所から月初めの日曜日か?諏訪の町へ買い物に出てきた人々だろう。少しお洒落をしている。中央の二人のご婦人は、財布右手に買い物袋からなにか取り出して相談中である。
昭和39年。邦画では「ゴジラ」「二十四の瞳」「七人の侍」、洋画ではヒッチコックの「裏窓」やフェデリコ・フェリーニの「道」が封切られている。
これも本町の水谷さんからお預かりした。昭和29年9月、諏訪駅ホームの端から西方向を撮った写真。右へゆっくりカーブして名古屋へ向かう。まっすぐ伸びているのが湯の山線。右遠くに見えるのは天理教だろう。
昭和32年、諏訪駅が取り壊された荒涼とした跡地。前の写真より東へバックしている。のどかな風景が壊されたような気になる。
昭和31年、諏訪駅を出た名古屋行き特急を見送る三人。北へカーブして三滝川を渡る。
樹林社刊 四日市の昭和より 門脇篤氏撮影
もう1枚、水谷さんからの写真。四日市駅西側踏切、諏訪駅方向を向いて撮るとある。善光寺カーブで、曲がった列車は、西方向へ真直ぐ諏訪駅へと向かった。
列車を走らせるための送電線の碍子?は、線路の南側を連なっていた。
本日の中日新聞より。1月26日、北勢地方から呼びかけに応じた高校生26人による「高校生議会」が開催され貴重な意見が掲載されていた。
「これからの公共交通を考える委員会」「帰ってきたい、ずっと住みたいまちづくり委員会」「どうなっているんだ?図書館委員会」の委員会に分かれて活発な討議がなされたとあった。特に図書館に関してはまさに的を得ていると言える。
我が家の裏手(西方面)一帯は連鎖街と呼ばれていた。飲み屋通りである。戦後、神社が兵舎を買い受け境内に移築したのが始まりである。同じ四日市幼稚園の子が2階に住んでいて遊びに出かける。少し目の吊り上がった美少女であった。階下は小さな飲食店の並びで、お母さんはそこでスナックを経営していた。中央に木造の広い階段がある。ゴトゴト上がると、東側に小部屋が並ぶ。その一室が彼女の家だった。絵本でも見せてもらったような気がする。この地域はしばしば火災を起こした。漏電火災が多く、一旦燃えると瞬く間に火は広がった。現在、すべて新しく建て替わっているが、通りの広さや飲食店の並びは昔のままの雰囲気である。
煙波というお店の看板が見える
南隣の香蘭では子守をしている
マップの右中央に渡辺菓子店がある。正ちゃんとよくここへ寄った。カバヤやグリコのおまけが欲しくて、中身のキャラメルを一気に口へ放り込みオマケを楽しんだ。点数をためて送ると景品が届いた。ジェムストーンなどたいしたものはなかった。
ナショナルの看板から浅野デンキがあった
連鎖街を含めて、諏訪神社や諏訪公園等、『まちっこ』にはあらゆるところが遊び場であった。
昭和33年7月24日、二番街の若紀久の向かい角を撮った写真。辻氏は移り変わる街の風俗や生活をカメラに収めた。当時の雰囲気が色濃く出た作品だ。飲食店の裏路地でくつろぐ女性たち。夏の暑い一日が終わろうとしている。開店までまだ少し時がある。
昭和43年のマップ。水炊き若紀久 となっている。
時代は移り昭和61年のマップ。
20年ほど前の若紀久前。現在は、スターアイランド東側に移っている。
昭和33年、シンガーソングライターで、当時十六歳のポールアンカが「ダイアナ」で春、一大ブームを巻き起こした。ロカビリー三人男の一人平尾昌晃はダイアナを「君は僕より年上と」の訳でヒット。アメリカではエルビス・プレスリーの影響でカントリーからロックンロールへの動きが目立った。アラン・ラッドの「シェーン」、ジョン・ウェイン「アラスカ魂」「リオ・ブラボー」、ヘンリー・フォンダ「荒野の決闘」などの西部劇は、映画と同時にテーマミュージックも良く聞いた。裏の北勢堂から流れてくる音楽が、帰路に急ぐ靴音に混じって流れていた。
本日、高島記者の取材で中日新聞に「花の四日市スワマエ商店街 レモン色の町」を掲載していただきました。感謝です。
ブログ掲載のきっかけは、20年前辻さんが移り変わる商店街の記録写真を提示していただいたのがきっかけでした。辻さんとのご縁がなければ、この企画も叶わなかったと、感謝の念に堪えません。エキサイト四日市・バザールの折、本部席で辻さんは「桜の花を撮るのは、花曇りの方がいい色が出る」とおっしゃっていた言葉が忘れられません。
左は大正4年の図です。四日市駅(現 JR四日市駅)から三重軌道(内部・八王子線)と四日市鉄道(湯の山行き)が出て、諏訪駅で二手に分かれていきます。真ん中は昭和6年、近畿日本鉄道が敷かれて四日市駅へ入った近鉄線は、諏訪駅へ進み、諏訪駅から名古屋へ向かっていました。諏訪駅は湯の山線と八王子線の始発駅となりました。そして、昭和31年9月23日、近鉄線の短絡化工事が終わり、中央道路を挟んで二つの四日市駅が対峙することとなりました。
辻さんの写真には、近鉄ストア開店が昭和32年4月とあります。31年9月には駅が完成しており、近鉄ストア開店が翌年だったのでしょうか?
近鉄ストア1階
駅の屋上の電光掲示板は注目の的でした。友達と南の外階段から上がり、裏がどうなっているか見に行った記憶があります。おじさんに注意され、すぐ降りてきました。
昭和32年4月
平成20年頃の駅前
駅の南側に地下道が出来たということを聞き、探検に出かけました。暗い地下道の真ん中で叫んでみると、大きく反響しました。小さな冒険でした。
昭和43年の駅前マップ
昭和35年12月20日、スワマーケットの本格的な取り壊しが始まる。辻さんは自宅の2階から北東方向に解体工事をカメラに収める。上から見ると分かるが、スワマーケットは小さな店舗の集合体だ。焼け跡の諏訪駅前に小さな店が並び始め、雨除けの屋根でつながれてマーケットが出来上がっていった。
山本氏は、地権者の調整にかなりご尽力されたと想像できる。諏訪駅撤去の昭和31年以来、取り壊し迄4年の歳月がかかった。そして、昭和37年9月5日、新しいスワ百貨店はオープンする。
開店の朝 白揚書房前
昭和37年9月2日、二年間の工事期間を経て四日市スワ百貨店がオープンした。四日市の新しい顔が誕生した。渡辺のジュースの素の看板をつけた八百屋の車が止まっている。荷台には桃の箱が積まれている。搬入の車だろうか。紅白幕に並べられた花輪。向かいの大阪屋前を多くの人が通る。諏訪南大通りのアーケードは台風で崩れ、撤去されている。
スワ百貨店の中には前の地権者が多く店を構えた。当時、近鉄ストアとここにしか無かったエスカレーターが珍しく、何度も乗りに行った記憶がある。街は希望であふれていた。
白揚書房前から北を望む
昭和37年9月5日、四日市の街に「四日市スワ百貨店」が誕生した。オープンの日には大勢の人が押しかけた。辻さんはカメラを携えて走り記録する。
その日の午後には、ひと段落した。百貨店の東と北側には花輪がずらりと並んだ。河合楽器、衆議院議員 山手満男、キングレコード 春日八郎、スワ百貨店1階親睦会。
10年ほど前の1番街 パチンコホームランとなっている
これは昭和43年、スワ百貨店はいちょうやビル店となっている。地下から4階までが店舗、5階が文化教室や事務所だ。昭和50年代に、5階の書道教室へ通ったことがあった。老先生と若先生が居て、先ず、若先生に書いてもらった手本を見て練習する。最後に朱色で添削してもらう。たまに筋が良いとお褒めの言葉をいただいたが、長続きせず短期間に終わった。あれはベンチャラだったか?自分に才能がなかったのか?
地下の「寿がきやラーメン」へはたまに出かけた。ラーメンの味は今でも変わらないと思う。ビル内全体は、天井が低くて狭い感じがした。店舗構成に魅力がなかったのか?昭和61年マップを見ると「アピカ」に変わっている。
昭和39年9月15日、辻さんが撮ったスワ百貨店屋上ビアガーデンの様子だ。行く夏を惜しむかのようにビールを楽しむ人々の姿は、やや閑散としていて寂しい。この頃は、どこの屋上にもビアガーデンがあった。工場の煙が漂う中、左に明るいネオン塔が望める。商工会議所の屋上に建つ東芝のネオンである。
スワ百貨店の店舗構成はどうなっていたのか?昭和43年の地図には4階までが店舗とあるだけで詳細は分からない。この時はいちょうやビル店とあるが、開店して6年目、ビルの名前は変わってないように思うが???この後、ユニーが入り、アピカとなる。
昭和61年にはアピカ内の出店店舗名が分かる。
平成6年のアピカ内部。
昭和38年8月8日?、おかざきさん前から北方向、フクヤさん前交差点を撮る。左のカワムラセンターは工事中か?完成しているのか?43年には開業している。おかざきさんの向こうの看板、うなぎ・キリンビールは、やっこ寿司さんになる。
昭和39年6月吉日、一番街ホームラン前の四つ角から公園通りを望む。この日は、一番街アーケードの地鎮祭が行なわれた。恰幅の良い山本七郎氏の姿が見受けられる。公園方面へ関西電波四日市支店・のんきやの跡地・武蔵野茶店・空き地があって相撲料理の栄家と並ぶ。キタオカ前には庇状のアーケードが造られている。ここのアーケードは昭和三十三年に造られたはずだ。道幅が広かったためその後、台風で崩れてしまった苦労の歴史がしのばれる。
10年ほど以前の景色、あまり変わってない
かなりのスピードで街が形成されていく。
昭和42年9月、辻さん前から西方向にカメラを向ける。大きな重機が横たわっている。諏訪劇場解体の途中か?雨上がりの水たまりをまたいで歩く女性が通る。
昭和43年の街並み
<山路昭雄氏の写真>
写真から想像すると昭和三十二年晩秋の早朝ではないだろうか
。
新しい駅がオープンして少し一段落した感がある。パイロット萬年筆の看板を揚げる新光堂書店が右に建っている。オカダヤはまだ姿をみせていない。近鉄ストア開店売り出しののぼりが、川伝いに並ぶ。この川はまっすぐ駅裏に抜けていて、現在駅西に川の続きを見ることが出来る。久保田町で三滝川からくみ上げられた水は、農業用水と下水の役割をしながら、あせち川へと流れていた。植えられたばかりの楠の木が、整備したての中央通りを物語っている。
近鉄ストア2階から中央通り東方向を見る。左にはすでにオカダヤが建っている。遠く左に商工会議所屋上の東芝ネオンが望める。
昭和33年3月8日。駅前のボンネットバスを降りた人々は、小雨の中を駅へ走る。その横に番傘をさして歩く婦人。スチールヂーゼルと塚本病院の看板が立つ。バス停前には東洋電機やヤンマーディゼルの建物が並ぶのは、昭和27年3月25日から1か月間、中央通りで開催された講和記念四日市大博覧会(通称 農機具博)による影響だろうか。講和記念大博覧会は戦後、中央通り(70メーター道路)をステージに開催された。
同33年7月20日、ご婦人二人が駅前バス停に立つ写真。バックには、スワランドリーと富士電機洗濯機・富士モートルの看板を掲げた東洋電機?が建っている。ひだりのご婦人のそばには女の子二人が寄り添っている。向けられたカメラに恥ずかしがっているのか?半世紀以上の古さを感じさせない写真っだ。
処で、中央通りは何時、何のために造られたのか?高齢の知人に尋ねると、戦時中、空襲による防火対策上、区画整備が行われたとおっしゃる。その証拠に、焼け野原となった諏訪地区に対して、70メーター道路を隔てた南側の浜田地区は火災を免れた。一方、「旧四日市を語る 第10集 P27」には、昭和20年6月の空襲で出た瓦礫は第1小学校(中部西小学校)の校庭に山積みされ、それが中央通りの埋め立てに使われたとも・・・真実や如何に?
※博物館2階で、四日市空襲直後の写真をボーっと見た記憶があるが、そこに70メーター道路が映っていたか?否か?どうでもよい謎は深まるばかりで・・・楽しい。
中央通りが何時できたのか?調べていたら空襲前後の航空写真をWebで見つけた。りーべさんのツイッターから(りーべさん、掲載、心よりお詫び申し上げます)、当時の航空写真はとても貴重だとあった。どうやって手に入れられたのか?昭和20年6月、四日市は空襲を受け、市街地は壊滅的被害を受ける。空襲前と後の区画はほとんど変わってないので、2枚の写真は数年程の開きか?その割には、“空襲後”の写真の方が鮮明である。
空襲前は、東海道沿いに家屋が行儀よくびっしり並んでいる。国道1号線の拡張工事が、三滝川南から諏訪駅あたりまで行われている。国鉄四日市駅東側と南の阿瀬知川まで運河が引かれていて、貨物は此処で船積みされたのだろう。ところで、この頃に中央通りはない。細い道が通っていて、両側の民家も少ない。この道が北側へ拡幅されたのだろう
空襲前
これが空襲後の写真。当時の中心部(現在の中部、北町、南町、中町)あたりはすっかり民家が焼失している。そのため、鉄道と道路がよくわかる。制度(精度の間違い スンマセン)の良い航空写真は、いつまで見ていても飽きない。
空襲後
結論、中央通りは、戦後の区画整理でつくられた。
空襲直後の空撮といっても、2~3年を経ているのではないか?かなり整地が進んでいる様子だ。瓦礫は小学校の校庭に集められた後、中央通りの埋め立てに使われたと旧四日市を語るにあった。空襲後の写真をよくよく見ると、中部西、中部東、浜田の校庭に碁盤の目のような道が付いている。中央通りの拡幅工事も進んでないところを見ると、車で運ばれた瓦礫の山ではないだろうか?と勝手な想像をした。
空襲後の航空写真
昭和30年頃の市街マップ 航空写真と揃えてミタ
昭和31年の航空写真を掲載した。地名を明記したので比較していただければ嬉しい。暇なので何でもできるワ
四日市空襲(昭和20年6月頃)の空撮写真は、見ていて楽しい。アメリカ軍が撮ったものじゃないかと思う。昭和32年頃のマップを自分なりに作っていたのだが、北岡氏から諏訪駅の位置が違う。もっと西に寄っていたのではと指摘をいただいた。航空写真からその位置が推察できる。
まずは、諏訪駅の健在だった(昭和30年頃)駅前の様子を再掲載する。
左がトイレ。東向き
辻俊文さんの影が映る午後
逆に駅方向を見た。右トイレ
次に、空襲後の諏訪駅周辺。
そして位置を書いてみた。暇だから何でもできマス。当店の場所が確認できる。空襲を迎えて、女子供は疎開させ、親父とお祖父さんが頑張って守った土地である。中町方面と違い、オタオタ逃げ惑う場所は残されていた様子だ。諏訪神社の防空壕へ避難した人々の多くは爆撃で殺された。
諏訪公園の南の空き地には、サーカス小屋が立った。後のカトリック教会は公園よりも南だった。後楽園と隣接している。プラットホームは意外と長かったようである。